2016年
4月
01日
金
子どもに何かをさせたいなぁ、という時のヒント
「あ〜かわいそうかな…」
2016年
4月
03日
日
2016年
4月
04日
月
子どもの言動にヒヤッとしたり、イラっときたりした時、考えてほしいこと。
あなたは、車の運転をしていて、子どもの飛び出しにヒヤッとしたことがありますか?
私の場合、何年か前に、渋滞していた対向車線から、スッと小さな子が出てきて、ヒヤッとした経験があります。
大人の感覚からすると、どうしてそんな危ないことができるの?
と思うことでも、子どもの場合、身長や視野の広さという物理的な制約で、大人の感覚で考えてはいけないのですね。
自動車メーカーのホンダでは、交通安全の啓蒙活動として、
「CHILD VISION」
という子どもの視野を体験できるメガネの情報を提供しています。
それによると、大人の左右視野が約180度あるのに対し、幼児の場合は、わずか90度。
半分しかありません!
さらに身長も約半分ぐらいと考えると、よほど大人の方が気をつけてあげなくてはならないのは、当然です。
さて、話は事故防止にとどまりません。
毎日の生活の中で起こる、様々な出来事についても、子どもの経験は大人より、圧倒的に少ないのです。
30歳前後でお子さんを授かったとすると、すでに30年の差があるのです。
当たり前のことです。
そんなこと、わかっていますよね?
ところが、お子さんも小学生ぐらいになり、言葉では大人と同じようなことを言うようになると、ついつい、圧倒的な経験年数の差を忘れがちです。
人間関係のトラブルは、大人でも嫌なものですが、子どもにとっては、大人の感覚以上に辛いものだったり、逆に、大人からすると、ひどい!と憤慨したくなるようなことなのに、全く気にしていなかったり、ということがあります。いや、よくあります。
その大人の感覚とのズレは、大人にとって、「?」マークを心の中で飛び交わすことにもなりがちです。
交通事故防止のための子どもの視野を把握することは、「CHILD VISION」など、具体的な体験として経験できます。
が、心の方は、なかなか簡単ではありません。
何かがあった時のお子さんの反応にイラっときたら、
「そうそう…4分の1、4分の1。今はこれでいいんだ」
と思い出してみてください。
視野も経験も4分の1の相手なんですから、まあ、仕方ないですよね。
そして、それはあまりに違うでしょ!と思うなら、怒る前に、
「知らなくて(できなくて)当たり前ん。教えてあげよう」
という感覚で接することが大事なのではないかと思います。
2016年
4月
05日
火
2016年
4月
06日
水
先生が見る夢。
意外と、うなされているんです!
そんなことを知るだけで、トラブル解決のきっかけになるかもしれませんよ。
今日は都内のほとんどの小学校で入学式、始業式がおこなわれました。
ランドセルを背負って、緊張しつつ、一生懸命歩いている姿に、涙を流された方もいらっしゃるでしょう。
また、始業式だった方は、新しい先生やクラスの友達を知り、喜んだり、悲しんだり、どんな表情でお子さんは帰宅されたでしょうか?
私自身もそうでしたし、多くの先輩や同僚からも聞くので、私のまわりだけではないと思うのですが、私達教師は、クラスがめちゃめちゃになってしまう夢を見るものです。
特に、新学期が近づくと、よく見る気がします。
子ども達が勝手なことを言ったり、やったりして、収拾がつかなくなっているのです。
あ~!
と思ったところで、目が覚めると、汗びっしょり。
そんな話をある方にしたことがあるのですが、その方は、とても驚いていました。
・それぐらい、仕事のこと、子どものことが頭から離れないんですね!
ということと、
・余裕で教室にいるように思っていたけど、実は不安になることもあるんですね!
という二つの意味で、驚いたのだそうです。
そうなんです。
先生という仕事は、好きでないとできないかもしれません。
もちろん、どんな仕事もそうだと思います。
新しく始まったこの一年間。
いろいろなこともあるでしょう。
先生の言動に、
「え?」
となったり、
「イラっ」
としたり、することもあるかもしれません。
が、私達教師も、同じように悩んで、冷や汗をかいているのです。
だから、多少のことがあっても、許してね、と言っているのではありません。
大切なお子さんをお預かりしているのですから、どんな出来事でも、長い目で見て、成長の糧になるよう、真剣に取り組むのは、当然のことです。
その上で、何か気持ちが煮詰まるような状況になった時は、気持ちを緩めるヒントとして、意外と、先生も悩んでいるのかもしれない、と想像してみてくださったら嬉しいです。
繰り返しですが、だから許してね、ではありません。
そういう心の隙間を作ることで、課題は解決に向かうことが多いと私は思うのです。
子ども同士のトラブルも、お互いが意固地になっている時は、一歩も引かず、気持ちばかりが昂ります。興奮して、罵詈雑言を投げつけ合うことにもなります。
そんな時に、何でもいいのですが、フッと心の隙間に風が吹くと、次のステージに進めます。
賢い子がクラスにいると、思わず笑ってしまうような失敗をしてくれることがあります。
そのことで、お互いが力を抜くことができるのです。
すると、相手の立場や気持ちを想像するゆとりが生じます。
先生も、クラスのことを気にして、うなされている…
そんなどうでもいいようなことも、もしかしたら、トラブルを乗り越える意外なヒントになるかもしれません。
2016年
4月
07日
木
本当に自分らしさを活かすためには、川の流れに身を任せる時も必要!?
大きな川の流れに入ったなら、ジタバタせずに流れに乗るのが安全で、スムーズですよね。
私の勤める小学校では、今日が始業式でした。
担任を離れ、新しい取り組みに向かっていき始めた今日。
この川の流れの先には、何が待っているのでしょうか!?
目標を明確にすることが大事だと言います。
しかも、「頭が良くなる!」というようなことではなく、何のテストで何点取る、とか、平均点を何点以上にするとか、数値化して具体的にすることも大事だとも言います。
確かにそれもそうです。
が、どうもそれでは行き詰まる、息が詰まるような気がするのです。
自分の予想できる範囲での目標という「自分で思い込んでいる限界・枠」を取っ払うために、ありえない数値目標を上げるのはいいのでしょうが、算数のテストは85点以上にしよう、などというのは、小学生の学校のテストなら、そう高い目標ではありません。
やる気が湧きだして止まらない!
などという効果はなさそうです。
ではどうするか…
目標を立てずに、流れに身を任せることも一つではないか、と思います。
今日は私の話をする勝手をお許しください。
今年度の私は、再び担任を離れることになりました。
職場の一員である以上、人事は絶対です。
どんな気持ちがあるにせよ、発令された人事には従います。
とはいえ、クラスを離れ、担任をしない、ということに寂しさや後ろ髪を引かれる気持ちがあるのも事実です。
でも、私はこの川の流れに身を任せることが、妙に大切なのではないか、という気がしてならないのです。
何の根拠もありません。
何の具体的な目標もありません。
ただ、妙に何か新しいことが始められるような気がします。
目標がないのではなく、正確には、目標を立てたり、考えたりする時間も惜しいほど、動くと言うことだと思います。
これまで、当たり前だったこと、考えを超える。
それは、自分の全否定ではなくて、過去の自分への執着を捨てるということです。
ですから、何か風穴を開けるようなことに取り組もうと思っています。
今、私が書くことには、何の具体性もありません。
この川の流れに身を任せて進んだ先で、思いもよらないほど多くのお母さんの気持ちを軽くし、そして、その結果、子ども達が安心して自分らしさを発揮できることだけを考えて書きました。
このようなブログは、常に読者目線で、読者の立場に立って、読者にとってメリットのある記事を書くのが常道です。
当然のことです。
テクニック論ではなく、相手の立場に立って、必要なことを提供する姿勢は重要です。
ですが、私にとって新しい一年の始まりの日。
今日は、これを書かなくてはいけないような気がして、書かせていただきました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
2016年
4月
08日
金
自分の考えを持てる子に育てたいなら、ちょっとしだ話題で、ロールプレイングしてみる。
いろいろな立場に立って、物事を考えてみる練習は、日々の日常会話でできると思います。
朝のテレビで、有名私立大学のサークルが、数十人の宴会を無断キャンセルし、キャンセルされた居酒屋の店員がツイッターでつぶやいたところ、それが大いに拡散し、サークルを批判する炎上騒ぎになったという話題が取り上げられていました。
そのテレビ番組での論調は、大学生への批判一色で、居酒屋については、被害者としての扱われ方でした。
私自身を含め、大学生の時代には、大なり小なり、騒いだり、迷惑をかけたりすることも多いものです。コメンテーターも、そういう自身の経験にも触れつつ、それにしても、ダメだ!ヒドい!という話に終始していました。
大学生だろうが、社会人だろうが、規約なり、ルールなりの有無にかかわらず、数人であっても当日のキャンセルは、お店に迷惑をかけることなのですから、どうしてもキャンセルせざるをえないなら、誠意を持って謝罪するのが当然だと思います。
決められたキャンセル料があったなら、支払う必要もありますね。
ですから、大学生側が責められるのは当然だと私は思います。
とはいえ、居酒屋店員の方も、大学名、サークル名を実名でつぶやくというのは、本当に望ましい対応だったのでしょうか?
そもそも、その店員のつぶやきは、居酒屋店の正式な意思表明なのでしょうか?
店員が腹いせにつぶやいたのか、店としての意思表明なのか、その辺りもはっきりしませんでした。
店側がサークルの誰かと連絡をどう取ろうとしてもできなかった、という説明がありましたから、店としてもそうせざるをえなかった、とも思えます。
難しい問題ですね…
テレビを眺め、そんなことを思いながら、こういうテーマでも、自分の考えをまとめる練習はできるな、と思いました。
「あなたがこっちの立場ならどうする?そっちの立場ならどうする?」
と、立場を変えて考える練習をすることで、教室などの日常でトラブルになった時に、自分の立場、相手の立場、第三者の立場、と視点を変えて考えることもできるようになります。
毎日の食卓がディベートになっても困りますが、自分たちとは少し離れた出来事を使って、立場によって見え方、捉え方が変わることを練習してみてはいかがでしょうか?
※ネットの炎上騒ぎから学ぶ子育てのヒントは、こちらの記事も是非、お読みください!
「ネットの炎上騒ぎに参加しやすい人の意外な素性に思う、
2016年
4月
09日
土
2016年
4月
10日
日
ママ友のことで悩むのはわかるけど、その家族のことでまで悩む必要はない!
何かを言われる、特に批判的なことを言われるのは、嫌だけど、まあ、言う人は必ず言うので、気にしない練習も必要では?
新しい年度が始まりました。
新しいクラス、新しい学校で、どんなお友達ができるか…
子ども達はもちろん、お母さん方も、ドキドキ・ワクワクですね。
新しい先生もわかり、友達の顔ぶれもわかり、さて、次に気になるのは、お母さん方の顔ぶれでしょうか?
事実、私の描いているブログでも、この一か月で最もアクセス数があるのが、
「お花見シーズンを前に、ママ友関係に、ヒヤリとした風を吹かさないヒントとは…」
というママ友関係の記事です。
さて、以前、とあるお母さんから、ママ友関係についてのお話を伺ったことがあります。
お子さんについて、とあるママ友から、ちょっとした注意を受けた、という話だったのですが、さらに気分を落としてしまった原因が、ママ友のご主人の言葉だったのだそうです。
その言葉というのは、特別に乱暴な言葉だったわけではないそうですが、なんで両親揃って、自分を悪く言うの!?と、腹も立つし、悲しいし、と、とても気分が荒れてしまったようです。
大なり小なり、子どもは周りに迷惑をかけるものです。
時には、相手の両親に謝罪する必要もあるでしょう。
文句の一つも言いたくなることだってあると思います。
が、売り言葉に買い言葉と言いますか、言葉は音声としては、瞬間的に消えてしまうのに、感情としては、心の中で、必要以上に増幅されて残ってしまいます。
ママ友のご主人は、夫婦の会話の中で、
「あ〜そうだね〜」
と、テレビでも見ながら、仕方なく相槌を打っていたかもしれません。
でも、
「我が家では、主人も一緒に、あなたの注意の仕方がおかしいって、言ってるのよ」
と言われてしまうと、夫婦一丸となって責めてきたように思えるのも想像できます。
そうなると、本質的なテーマから外れて、大人の感情対立になってしまいます。
そんな時は、まず、
「トラブルは何?」
ということをはっきりさせる必要があります。
具体的に、誰がどんなことをして、どんな迷惑がかかったのか、相手はどう感じたのか、ということが原点です。
その上で、謝罪する必要があれば、スパッと謝り、もうおしまいにして、次のこと、他のことをあえて、考えていく必要がありそうです。
騒ぎが好きな人は、騒ぎを大きくしていきます。
関係者は、誰か。
もう、当事者までで十分です。
口で言うのは簡単。
実際の気持ちは、そう理屈どおりにはいきません。
だからこそ、気にすべきこと、もう意識を向ける必要のないことの区別をつけるよう、練習することが大事だと思っています。
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2016年
4月
11日
月
お子さんは、嘘つきじゃない!
きちんと、本当の気持ちから言葉が出ている。
かつての話…2016年
4月
13日
水
自分の心のクセが、スタバでの1杯の水から見えました。
人の言葉や態度、ちょっとした出来事でわかる、心の偏り
先日、いつもはあまり行かないスタバに入った時のことです。
注文を終え、会計が済んだところで、店員さんに突然、
2016年
4月
14日
木
2016年
4月
15日
金
寒い時は、服や暖房で温かくするのですから、心が冷えた時は、言葉で温かくするべき?
寒さを感じたら、自然ともう一枚、
可能なら、暖房を入れることもあるでしょう。
でも、一番、即効性があるのは、
だとすると、心を温めるのは何でしょうか?
温かい言葉。
確かに、それも大事だと思います。
さらに、意義深いのは、温かい眼差しではないかと私は思います。
一見、言葉の方が即効性がありそうな気がします。
「大丈夫だよ」
「できてるよ」
「がんばったね」
一言で、温かい気持ちになることも、大いにあります。
が、一方で、口だけ、と思われると、
当然といえば、当然です。
子どもだって、口だけの言葉、
まいっている子どもを前にして、とりあえず、
というのは、かえって逆効果ということにもなります。
ですから、言葉よりも前に、
温かい眼差しは、確実に子どもの心を温めます。
うまくいかないことや、つらいことがあって、
でも、その積み重ねは、困難にも強い、柔軟な心を育みます。
どんなに失敗しても、悪さをしても、
2016年
4月
16日
土
2016年
4月
17日
日
「お母さんに言うよ!」
そう言われた時に、お子さんはどんな反応をすると思いますか?
できれば、笑顔が浮かぶといいのですが…
ずいぶん前のことなのですが、以前、低学年の担任をしていた時、フルーツバスケットというゲームをクラスでしたことがあります。
あるひょうきんな子が、オニになった時、
「お母さんが怖い人!」
と、みんなに問いかけたことがあります。
その時の、子ども達の様子がいろいろで、見ていてとても楽しかったのをよく覚えています。
いろいろ、とは言っても、反応は大きく3つに分かれました。
まず、明るくゲラゲラ笑って、「ウチウチ!」とすかさず立ち上がる子。
次に、ニヤリと笑って、様子を見つつも、楽しげに立ち上がる子。
そして、無表情にうつむく子です。
どんなにお母さんが怖くても、子どもにとって、お母さんは特別な存在です。
少々、怖くたって、結局はお母さんの存在で、安心ができるのだと思います。
ただ、特別な存在であることの度が過ぎると、
「ウチのお母さん、怖いんだよ〜」
という程度の、ちょっとした会話もできなくなることがあるようです。
私自身、自分の母との関係が、安定しているとも思いませんし、何となく素直になれないところも大いにありますから、話は、そう簡単でないこともわかっているつもりです。
だからこそ、なのかもしれません。
程よく、お母さんの話をしたり、お家の中で起こるドジ話をしたりできる心のゆとりが必要なのかな、と私は感じます。
私は、子どもの言動を正すために、
「お母さんに言うよ」
ということはありません。
脅しは、短期的には効果もあるかもしれませんが、結局、慣れてしまうだけです。
それに、特別な「お母さん」をダシにすることで、子どもにプレッシャーをかけると、長い目で見ると、素直さを奪うことになると思うからです。
もちろん、お母さんに学校で起きた出来事の連絡はします。
何かが起きた時、
「これは、お母さんに言った方がいいことだから、言うよ」
という話は子ども達にしますが、それは脅しではありません。
むしろ、心の準備をさせるためです。
楽しい気持ちで、
「そんなことしたら、お母さんに言うよ〜」
と誰かに言われた時、
2016年
4月
18日
月
好きなことなら、長続きする。
もしかして、それをしている、あるいは、持っている自分が好き、という可能性はありませんか?
受験を勝ち抜いて、わが子らしさが生きる環境、あるいは、ご両親が惚れ込んでしまう教育理念や方針、内容を求めているのか…
それとも、いわゆる「いい学校」に子どもを合格させた自分が好きなのか。
この違いは、決定的なものです。
私が言いたいことは、その違いに気づいておくことが大事だ、ということです。どちらがいいとも、悪いとも言っていません。
どちらかのフリをすることで、子どもは心を疲れさせる、ということを言いたいのです。
「あなたのためなのよ」
と、本当かどうかわからないことを言われるより、
「私が気に入っているんだから、今はこれにしなさい」
と、ハッキリ言われた方が、
「ひどいよ〜お母さんの都合じゃないか〜」
と文句を言えるだけ、明るく過ごせます。
クラスでは、習い事や塾など、放課後の時間の使い方について、相談を受けることもしばしばです。
そんな時、ゆっくり話を伺うと、
「この習い事、完全に私の趣味なんですよね…」
と苦笑いされるお母さんもいらっしゃいます。
私は、それを自覚して、しかも他人に言える、というオープンなところがステキだと思うんです。
お子さんが小さいうちは、お母さんの趣味でいいんだと思います。
好きなのは、そのものなのか、それとも、それをしている自分なのか、重要なポイントだと、私は思います。
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実績、お問い合わせ、お申し込み方法などをご案内しています。
2016年
4月
19日
火
ない、ない、と思っていたものが、身近にある。
特に、他人にはあって、自分(我が子)にはない、というものほど?
他人の中に自分にはない良さを探すのは、もったいない。
実は、もう、自分の中に、十分なよさがあるのではないでしょうか?
隣の芝生は青い
と言います。
私にも、その感覚はあるので、わかる気がします。
先日、とある女子と話していました。
その時、ふと現れた上級生の女子と、二言三言、言葉を交わし、上級生の子は、サラリと去ってしまったのですが、その時、
「あ〜あんなお姉ちゃんが、私にもいたらよかったのに…」
と、私の横で、彼女はつぶやいたのでした。
彼女のお姉ちゃんのことを私は知りません。
が、彼女とのこれまでの会話で、お姉ちゃんへの信頼感や、あこがれのようなものを感じていたので、特別、関係が悪いというわけでもなさそうです。
颯爽と去っていった上級生の女子は、彼女とは、またタイプの違う子です。
スポーツがよくできて、なんとなく、キラキラした感じがします。
「あんなお姉ちゃん…」
と、彼女は言いましたが、どことなく、
「私もああなりたい。あんなだったらよかったのに…」
という気持ちが垣間見えた気がしました。
彼女は、物静かで、口数も少なく、その分、周りのことをよく見ていて、冷静です。信頼できます。
でも、そんな自分の特性を
「つまらない」
ととらえてしまうんですね。
私からすると、もったいない!とんでもない!ということですが、本人にしてみれば、そうなのです。
私は気遣いでなく、彼女の魅力を感じていますので、とりたてて、彼女を妙に褒めてみたり、励ましてみたり、あるいは去っていった上級生を悪く言ったりもしません。
単純に、それぞれの魅力を感じ、それぞれが、もっと自分らしさを磨いてほしいと思って、見守るのみです。もちろん、会話もしますし、一緒にも遊びますが、「あえて」、何かをすることはありません。
話はガラッと変わります。
フレンドリーな接客で、ファンをつかんでいるスターバックスコーヒーですが、よくFacebookやツイッターなどで、カップに一言、メッセージを添えてくれるのが、嬉しいとか、癒されるとか、励まされる、という写真を見ることがあります。
私は、もらったことないなあ〜と漠然と思っていて、そんなに欲しいとも自覚していた訳ではなかったのですが、つい先日、入ったスタバで、とうとうメッセージがあるのを見つけ、2つの大きな学びがありました。
まず1つ目。
そのメッセージは、
「Thank you !」
という、特別なものではなかったのですが、妙に嬉しい自分に気づきました。
「別に、欲しい訳じゃないよ〜」
とニヒルを気取ったいたわりに、実は、
「いいな〜自分にはないな〜」
と、「自分にはない」ということを過剰に意識していたんだな、ということに気づきました。
そして、2つ目。
実は、気づかなかっただけで、今までもメッセージはあったのではないか、ということです。
この日、メッセージに気付いたのは、カップを運んだ時に、うっかり揺らしてしまい、少し中身がもれてしまったのです。そこで、こぼれたところやカップの脇を拭いたのですが、その時に、メッセージに気付きました。
日頃、そんなに頻繁にこぼす訳もなく、カップの飲み口は1か所しかないわけで、ぐるぐるカップを見回したりはしません。
ということは、ないない、と自分で決めつけていただけで、実は探していなかった、気付いていなかっただけ、という可能性もあるということに思い当たったのでした。
私は、ということかもしれませんが、クラスで子ども達と関わってきて、人の目は、
「ない」
ことの方に向きやすく、しかも、そのことをネガティブにとらえがちだと感じます。
が、それは、もしかしたら、もったいないことなのかもしれません。
本当の自分の魅力を隠してしまう心の持ち方かもしれません。
あるいは、本当は、もうあるのに、ないと決めつけているだけかもしれません。
このところ、スタバでは、いろいろなことに気づかせていただいています。
割高な(!)コーヒーも、私にはとんでもなく、お安い授業料のようです。
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2016年
4月
20日
水
子どもを(人を?)ほめてはいけない理由 〜その1〜
なぜなら、その「ほめたいと思ったこと」がレアな状態だということを強めてしまうから。
当たり前のことなんだから、ほめる必要なんてない!
ほめて伸ばす…
大切なことのように思います。
が、私は大先輩に言われたことをきっかけに、違うんだ〜と思うようになりました。
十何年か前、私は大先輩の指導の下、初々しい若手教師をやっていました。
始業し、数日経った時、大先輩から、こう言われたのでした。
「青木先生は、私と違って、悪いことを見つけてグチグチ言わないのがいいわ。
目を向けている方向がいいと思う。でも、ほめすぎね。」
私は、目の向け方を認めてもらえたのに、ほめすぎだと言われた意味がわかりませんでした。
とまどっている私を前に、大先輩は話を続けました。
「だって、できるのが当たり前なんだから、一々、ほめる必要がないでしょ」
なるほど〜
と思いました。
当たり前のことを一々、ほめる必要はありません。
極端な例ではありますが、
「いやあ、よく1分間に15回も呼吸するね。すごいね!」
とか、
「さすが!まばたきのリズムがいいよ!」
などと、ほめることは、普通はありません。
なかなかない、レアなことだから、あえて「ほめる」必要があるんですね。
ということは、「ほめられた」ということは、そのいいこと、状態がレアだ、
ということを強める意味も持ってしまうわけです。
子どもに(人に)関心を持つことは大事。
そして、悪いところではなく、いいところに目を向けることも大事。
でも、「ほめる」ということは、度がすぎると、かえって「ダメな自分」、
「できない自分」を強調することにもなるようです。
お子さんが、できない、できない、と苦労していたこと、気になっていたことが、
やっとのことでできるようになった時、
「よかったね〜できたね〜」
というのは、むしろ必要なことでしょう。
生活に身近な、当たり前のことで考えてみてください。
・朝、お母さんに起こされずに起きてきた。
・明日の用意を一人でできた。
・家に帰ってきたら、すぐに着替えて、宿題を始めた。
そういう「当たり前」のことは、子どもにとっては、なかなかハードルの高いことでもあります。
が、いずれは自分でできるようになります。
そう確信するからこそ、一々、ほめないのです。
お子さんが何か「いいこと」をして、
「ほめてくれないの〜」
という顔で、お母さんの様子をうかがっているなら、
「だって、あなたならできて当然でしょ。当たり前のことを一々、ほめないわよ」
と言ってみましょう。(もちろん、嫌味ではなく)
その上で、
「でも、もちろん、見ていたよ」
と伝えてあげることも必要です。
お子さんが、突き放されたように思っても困りますから…
「ほめる」ことは、なかなか難しいです。
明日は、また違った観点から、「ほめる」ことの課題について考えてみたいと思います。
~~
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2016年
4月
21日
木
子どもを(人を?)ほめてはいけない理由 〜その2〜
ほめると見せかけて、実は誘導であることがあるから。
ほめる…
いいことのようで、よくないという側面があり、もちろん、叱ってばかりでは、やる気も出ない。難しいテーマだと思います。
私は、この「ほめる」ということについて、昨日の大先輩からの言葉をきっかけに、先輩や同僚と、たくさん話してきました。
私の勤める学校は、とても小さい学校ですが、私が初任の頃は、1学年1学級しかなく、当然、先生の数も少なくて、年の近い先輩も、少なかったわけですが、そういう近しい先生からも、
「青木先生、ほめるって難しいよね」
と、クラスでの出来事を聞かせていただきました。
その内容は、ほめることで、子どもを誘導してしまうということでした。
ほめてもらえることで、やる気が出る、認めてもらえてうれしい、
というのは、自然の心理だと思います。
が、「ほめる」ということをエサにして、こちらの都合のいい状況に、子どもを(人を)誘導しようとすることになりやすい、ということを念頭に置いておきたいものです。
もちろん、それは、多くのお母さん方も、わかっていらっしゃることだと思います。
できなかったことができるようになった!
「すごい!よくできたね!」
これは自然です。
でも、
大人にとってできてくれると都合のいいことがなかなかできない。
早くできるようになってほしい…
「ほら、できるよ。できるよ。あ〜できたね〜さ、じゃ、今度はこれいこう!」
これは誘導です。
まぁ、ここまであからさまな誘導は、自覚しての誘導でしょうから、いいと思いますが、自然に認めているつもりでも、子どもの方は、無意識にその方向で行かなきゃ!と受け止めてしまうこともあります。
このテーマは、考えることが大切なのかもしれません。
誘導の全くない子育てなどありえませんし、誘導ばかりしていては、子どもの自己肯定力を抑えつけることにもなるでしょう。
「正解」を求めるのではなく、現に今、子どもたちが教室なり、ご家庭なり、友達との関係においてなりで、起きていることを正面から受け止めつつ、考えていきたいな、と思います。
2016年
4月
22日
金
2016年
4月
23日
土
2016年
4月
24日
日
2016年
4月
25日
月
2016年
4月
26日
火
自然に勝る教室はない。
今日は珍しく、写真付きの記事です。
今朝、東京の吉祥寺というところにある、井の頭公園で撮った一枚です。
タイトルの通り、自然に勝る教室はないと、いつも感じる瞬間です。
今日のように、快晴の清々しさはもちろんですが、雨でも、曇りでも、それぞれの味わいがあります。
私の勤める学校には、井の頭公園ではないのですが、同じように、空気のよい、素晴らしい公園に、出かける「授業」があります。
その「授業」では、ただ、遊びます。
理屈も、理念も、教育技術もありません。
遊びます。
その公園には、広い原っぱもあれば、雑木林もあり、小さな川も流れています。
ですから、鬼ごっこやサッカー、ドッジボールのような動く遊びもできますし、
木々や川辺にいる生き物を探したり、この時期なら、お花を摘んだりもできます。
この大切な時間に、
「この授業の目的は〜」
「ねらいは〜」
「その結果、子どもは、こうなんて、あれがよくなって…」
と、理屈が登場すると、おそらくその魅力は、なくなるどころか、むしろ、悪い方にもいくとさえ、私は感じます。
以前、フィンランドに教育視察に行ったことがあります。
ご承知の通り、フィンランドの冬は、非常に日照時間も短く、暗いうちに家を出ることも当たり前です。
しかも、フィンランドの共働き率は、日本以上で、子どもだけが暗い中を小学校に通うこともあると、聞きました。
その話を聞き、安全上の問題はないのですか?と聞いたところ、意味をわかってもらえませんでした。
暗い中を一人で子どもが来ることの危険、という概念がなかったようです。
日本では、まだまだ、子どもだけで学校に通うことは当たり前ですが、アメリカとなると、またフィンランドとは対極に位置しています。
子どもを一人で、学校まで歩かせるなどというと、虐待だと通報されかねません。
私が視察で訪れた街は、フィンランドの首都ヘルシンキではなく、少し北に行った街だったこともあると思います。
が、フィンランドの次に、デンマークに移動し、コペンハーゲンの中学校も見学したのですが、コペンハーゲンの街に着いた時、皆で、
「あ〜ヘルシンキに戻りたい〜」
と言ったのをよく覚えています。
コペンハーゲンだって、十分にきれいな街なのですが、首都のヘルシンキでさえ、緑と水の豊かな、本当に素敵なところだと私たちには思えたのですね。
フィンランドの国としてのGDPは、日本よりはるかに低いですが、一人当たりのGDPでは、日本よりも上です。
あのフィンランドで感じた、ゆったりした空気。
もちろん、フィンランドの人々からすれば、そう単純な問題ではないでしょうが、アウトサイダーとして、素直に感じたのは、自然の豊かさは、人の心も豊かにするのかな、ということです。
理屈をこねくり回すのではなく、自然の中に子どもを放つことの価値を大切にしていきたいものです。
〜〜
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2016年
4月
27日
水
言ってはいけない!
「お願いだから」
大切なことなら、「お願い」なんて、下手に出る必要はない。
「お願い」されるから、「イヤ」になる。
先日、最寄りの駅に向けて歩いていた時のことです。
まだ朝も早く、会社や学校に向かう人たちも多かった道でした。
新人研修なのか、美容室のチラシを渡している若者がいたのですが、
ほとんど、誰一人、受け取る人はいませんでした。
すみませんが、私も受け取りませんでした。
次の日、また同じ光景に出会いました。
やはり、私の見える範囲では、誰も受け取っていませんでした。
それはそうですね。
会社や学校に急いでいる時間帯、状況に、金髪や茶髪の若者に、美容室のチラシを渡されても、邪魔になるだけです。
ですから、4月という時期もあり、美容室としては、新人研修の一環なのかな、と思ったのですが、次の瞬間、耳に残った言葉がありました。
「〜お願いします!」
「割引のクーポンになってます。お願いします!」
うん?
割引、というメリットを説明しつつも、結局、「お願い」か…
お願いされると、嫌になる。
イジワルなようですが、それも一つの心理ではないか、と思ったのです。
「お願い」される、ということは、相手から、自分の心に要求を押しつけられるということです。
すると、自然と
「押し返そう」=「イヤ」
という心理が沸き起こるのではないか、という想像が私の頭の中に起こりました。
私は、勤務する学校で、放課後の子ども達の預かりを担当しているのですが、そこで、大学生の指導員は、子ども達が言うことを聞かなくなると、
「ほら、頼むから、もう着替えなさい」
とか、
「ねえ、お願いだから、もうやめて」
という言い方をしてしまうことがあります。
もちろん、私も教室でそういう言い方をしたことが何度も(!?)あります。
が、よくよく考えると、「お願いする」って、変です。
教育上、安全管理上、その他、正当な理由と目的で、子どもに何かをさせたい時、
「お願いする」
というのは、おかしいと思いませんか?
もちろん、子どもがしたくない、という気持ちになるのは理解できます。
例えば、楽しい遊びをしているけれど、帰る時間になってしまった。着替えたくない!
宿題をやっておかなきゃダメだけど、先にあの遊びをしたい!
そりゃ、まあ、そうですね。
が、やらなくてはならないこともある。
だとすると、「お願い」なんて、する必要ありませんよね。
でも、なんだかかわいそう…と思って、下手に出てしまうのです。
「かわいそう」
何がかわいそうなのか。
よく考えてみると、子どもに無理強いして、嫌われる自分がかわいそう、という側面もありそうです。
「お願い」と妙にへりくだったり、下手に出たりすることは、かえって言われた方が、断りたくなる心のプレッシャーを与えることになるかもしれませんね。
そういえば…
かなり前のことだったと思いますが、妙にティッシュペーパーを多く手渡している人を見かけたことがあります。ほとんど全員が受け取っていたような気がします。
その人は、無言でした。
何を配っているのか、見えるようにして、無言で、スッと手に載せているという感じだったと思います。
言葉は相手を鼓舞する力も持っている反面、プレッシャーを与える側面もあります。
まず、「お願い」しない。
試してみませんか?
〜〜
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2016年
4月
28日
木
「できる子」に育てる極意!?
「できないこと」を認める。
「あ〜それ、できない!」
やりもしないうちから、文句を言って、やろうとしないお子さんにイラっとされたことはありますか?
どんなことでも「初め」があり、
どんなプロにも「初心者」がある。
だから、初めからうまくいかなくて、当たり前。
きっと、お子さんに何度も話されたことがあると思います。
ですから、そういうことは、「知識」としては、お子さんの頭の中には入っているのです。
でも、できないことはしない。
それは、誰でも初めはできないけれど、やっていればできるようになるよ、ということが、ハラ落ちしていないということです。
だいたい、私自身が、できないことにも果敢に挑戦していこう、というタイプではありません。
できない自分、ダメな自分は隠しておいて、スマートな自分を見せていたい。
そう思って憚らない私です。
もちろん、私はそんなスマートな人間ではありません。
スマートに見せよう、と必死に演出しているわけです。
スマートに見せるために、できる何か、すごい何かをアピールするなんて、まさに張りぼてですね。
ところが、そんな張りぼての自分も、子どもの前ではバレバレです。
私の勤めている学校には、職員室がなく、担任は朝から晩まで、教室にいます。
1週間近くにもわたる臨海学校が2年生からあり、当然、寝起きも一緒にします。
ということで、一生懸命、張りぼてを作っている自分もバレバレなんですから、もう、仕方ないと、裸の自分でいるしかありません。
そんな「できない自分」をどうにか、認めようとしている「自分」
大人でさえそうなのですから、子どもは、もっと「できないこと」を自分で認められないのではないでしょうか。
何かをやってはみたけれど、できなかった自分。
そんな自分を自分で見たくないからこそ、やらない。
ならば、できない自分を認めてあげることが、スタートになるのではないかと思います。
私の経験上は、「できないこと」を子どもが想定している以上に認めて、どんどんやってあげると、そのうち、
「もう大丈夫。自分でやる」
と言い出す子がほとんどです。
ですから、「できないことを認めること」も、「初めはやってあげること」も、全く甘やかしではありません。
むしろ、戦略的な取り組みなんです。
何より、自分自身が何かを始める時、そうしてくれたら、心のハードルは、ずいぶん下がるだろうな、と思います。
一度、試してみませんか?
〜〜
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2016年
4月
29日
金
晴ればかりじゃ、枯れてしまう…
グチったり、他人の悪口を言ったり、そんなジメジメした、
ヤンチャ坊主も、言葉をよく聞いていると、
などと、自分を責める、
2016年
4月
30日
土
熱意が人を動かす、のウソ?
肩の力が抜けているから、話が伝わる。
私の知人で、カラオケ大好きな人がいます。
その人から聞いた話なのですが、ヘタな人の歌ならまだ聞けるのだそうです。
一番、聞いていられないのは、上手さをアピールしようと、力がこもっている人の歌なんだ、ということでした。
あ〜なるほど〜
と、気づきのある話でした。
私も子どもたちに、これは伝えなきゃ!と力んでしまうことがあります。
ケンカがあったり、トラブルがあったり、あるいは、いいことでもそうです。
「この出来事の意味を、この子たちに伝えるんだ!」
と力むと、確かに、白けてしまうことがありました。
私のケースでは、私対子どもたち、という構図ですから、ご家庭でのお子さんとの会話とは、また状況も違いますが、どうも、大切なことほど、力むと、かえって伝わらない、ということを頭の片隅に置いておくと、無用な親子ゲンカやイライラを減らすことができそうです。
「こんなに真剣に話しているのに!」
と、お母さんがイライラしてしまう時、
「うん?ちょっと力み過ぎているかな?」
と考えてみることは、お子さんに話を伝えやすくするキッカケになるかもしれません。
実は、このブログもそうなんです。
よし!
今日は、自分の教育観がしっかり表現できて、事例もあって、よくできたぞ!
と、力のこもった記事なのに、大して反響がないのです。
むしろ、学校からの帰りの電車の中で、10分程度で、サラッと書いた記事に、いいね!をたくさん、付けていただいたり、メッセージをいただいたりするものなんです。
お子さんが、本当に苦しんでいる時は、大げさなほど、真剣に、力をこめる必要もあるでしょう。
が、いつもいつも、お説教に力がこもっていたのでは、とても、子どもは気持ちがもちません。
マジメなお母さんほど、適当であることに一生懸命になるといいのかもしれません。
〜〜
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