2016年
2月
01日
月
2016年
2月
02日
火
北風と太陽の物語で、一番、重要なのは、何だと思いますか?
私は、「よし、この旅人の外套を脱がそう!」と決めたことだと思います。
北風流ががいいか、太陽流がいいかは、どうでもいい。
つまり、方法論よりも、何をしようか、させようかと、決断することこそ、重要なのではないでしょうか。
かつての私は、「北風」そのもので、怒鳴ることもしばしば、子ども達にたくさんの要求をしていました。
しかし、今の私は、どちらかと言うと、「太陽」のやり方を好むタイプだと思われているようです。
(思われていたいです…かな?)
変わった結果、成果は…
あまり、変わりませんでした。
むしろ、何をさせるか、要求するかを迷っているかいないか、ハラを決めているか、いないか、ということの方が、決定的な要因だと思います。
私自身、先生は北風のようでなければならない、と妙に思い込んでいたこともあり、かつては、「北風」で「あろう」としていました。
しかし、どうもしっくりいかない…
そこで、ある時から、言葉遣いも丁寧にし、男女問わず、さんをつけて呼ぶのを普通にし、できる限り、決めつけずに、話を聞き出すよう努めるようになりました。
そのおかげで、
「先生の優しさのおかげで、~」
と、言っていただけることもあり、嬉しいものです。
しかし、さすがにそれで有頂天になるほどではありません。
当然、反対の見方・声もあるわけです。
「先生が甘いから、こうなるのよ~」
本当にそうだな、と思うこともあるし、
「いや、そんなことはありません!」
と言いたくなるようなこともあります。
子どもも、保護者も、同僚も、それぞれの立場で、それぞれの反応を示します。
それらの1つ1つに、意味も、価値もありますが、それらの反応を気にして動くと、ロクなことはありませんでした。少なくとも、私の場合は…
「私」という人間の全てをかけて、「これは要求する」と、覚悟を決められたことは、子どもにその気配が伝わるようです。
「太陽」方式に変えて、劇的に変わった!なんてことはなく、
一方で、「北風」方式が、すごくよかった、なんてこともなかった…
むしろ、方法論なんかより、
「よし、今日は4ページ進むぞ!」
とか、
「今日は、この子と向き合おう!」
などと、こちらの覚悟を決めるかどうかの方が、よほど大事なんじゃないか。
怒鳴ろうと、ほめようと、見張っていようと、見守っていようと、それなりに、子ども達は動いてくれました。
まずは子どもに何を要求するか、固まっていますか?
それが決まってから、方法を探し求めてもよさそうです。
2016年
2月
03日
水
たくましい子を育てたいなら…
何か起こるたびに、
「大丈夫」
という。
お子さんをたくましく育てたい、とおっしゃる方は多いです。
では、どうすればいいのでしょうか?
体を鍛える。
それも一つです。
心と体は、思っている以上につながっています。
運動をしたり、外に出て遊んだり、ということは、心も体も大いにたくましくするでしょう。
私は、それ以上に大事なことがあると思います。
それは、どうであっても、自分は大丈夫だ、と子どもに思わせることです。
運動をすれば、失敗したり、恥をかいたり、負けたり、怪我をしたり、バカにされたりもします。
友達と外に出れば、嘘をつかれたり、逆に意地悪をしてしまったり、いろいろなことが起こります。
そういう全ての出来事は、成長上、あること、として、丸ごと認められるかどうかは、決定的に重要なのではないかと思います。
このような考え方は、理解してくださる方にとっては、もはや言うまでもないほどのことなのです。
でも、一方で、このような考え方を、単なる「甘やかし」と感じる方も、いらっしゃいます。
確かに、そう考えることもできます。
ただ、私としては、これは「甘やかし」では、全くないのです。
たくましく育つためには、失敗も成功も、酸いも甘いも、トータルで受け止めていく心の柔軟さ、強さが必要です。
「ボク(ワタシ)は、絶対に大丈夫」
と、思えないと、そんなに心をしなやかにはできないでしょう。
だからこそ、子どものうちは、
「大丈夫、大丈夫」
と、大人が受け入れ、励ますことが必要だと私は思います。
失敗も含めて、受け入れてもらえた経験があるから、他人の失敗や悲しみも受け入れられるのではないでしょうか?
いい面にばかり、目を向けられて、失敗や弱点をないものにされていると、片面にばかり、光が当たっているのと同じです。
その面が、焼け焦げてしまいます。消耗も早まります。
あまり嬉しくない一面も含めて、大丈夫と認めることは、甘やかしではなく、長い目で見て、とても効果のあることなのではないでしょうか。
2016年
2月
04日
木
イラっとした時のヒント
なんで、こんな言い方をするのかな!
とイラっとしたことがあるでしょうか?
正直に言うと、私は、思ったことが、何度もあります…
しかし、最近、思うようになりました。
実は、わかっていることを言われてしまったから、「守っている」のかな、ということです。
お母さんの立場でも、何かをお子さんに言った時、
「は〜い」
と素直に言われるのと、いちいち、
「なんで?は?」
などと、言われるのでは、ずいぶん、気持ちが違うと思います。
多少の反抗も、初めはカワイイかもしれませんが、だんだん、イラっとされることもあるのではないでしょうか?
私も、上に書いたように、イラっとしてきたものです。
でも、このところは、
「まあ、そんな態度なんか、しなくていいんだよ。責めてないから」
という気持ちで接するように努めています。(すみません、100パーセントではありません…)
そう思うことで、注意などをした後、その子がどんな反応を示すかな?
と見る余裕ができてきたと感じています。
先日、とある男の子が、ぶつかられた、と泣いていたことがあります。
話を聞いてみると、ぶつかったという子は、要はふざけていて、出会い頭にぶつかった、ということのようでした。
しかし、ぶつかった子は、自分に負い目があるもので、妙に泣いていた子を責めるのです。
そんなに、責めていないよ、とまずは伝えることがスタートになりました。
それでも、簡単には素直になりませんでした。
が、ちょっと距離を置き、見ていると、全く関係のない男子グループの中に入っていき、ひとしきり笑った後、ずいぶん、表情が穏やかになっていきました。
ここまで気持ちが鎮まれば、いろいろな話をすることができます。
まあ、手がかかる、といえばそれまでですが、大人だって、そう素直に振る舞えるものではありません。小さい時だからこそ、「心の手間」をかけてあげたいものです。
なんでこんなにイラっとさせるんだろう?
そう感じる時は、逆に、大事なことを理解しているけれど、素直にはできない、そんなサインかもしれません。
2016年
2月
05日
金
困った時こそ、子どもに聞く。
ただし、本当にその問題が、「子どもにとって」問題で、大人の考えに誘導しないならば…
2016年
2月
06日
土
親の見栄でも都合でも、大歓迎。
2016年
2月
07日
日
トラブルは、早い方がいい。
病気だけではなく、トラブルや困りごとは、
困りごとが起きた直後には、思えないと思いますが、
ただし…
基本的には、土曜日・日曜日・祝日に限らせていただいておりますが、
よろこんで、全国どこにでも参ります。
料金は、対象・人数・時間・ご予算によって、相談させていただきます。
〜母親向け事例〜
・「怒鳴ってしまう、その前に!心を鎮める3つのヒント」
・「お母さん!あなただからこそ、お子さんを輝かすことができます」
・「お子さんをプレッシャーから守る言葉かけ」
など
上記以外も、趣旨を伺い、よりよい時間になるよう、ご一緒に考えさせていただきます。
2016年
2月
08日
月
友達がいた方がいいか、いなくてもいいか。
漫画家の蛭子能収さんが書かれたという「ひとりぼっちを笑うな」(角川新書)が、16刷9万7000部のベストセラーになっているそうです。(産経新聞・自由でいるために、「ひとり」を選ぶ)
この記事によりますと、以前、LINEのトラブルをきっかけに、女子高生が殺される事件があった時、
「なんで、こんなことで殺されないといけないんだろう」
「友達同士のトラブルで、もめて殺されるぐらいなら、友達なんていなくていい」
と思われ、本を書くことにしたのだそうです。
悩みとは、どんなものであれ、結局は人間関係の悩みなのかもしれません。
お金の悩みだって、お金がないことなどの結果、発生する人間関係の大変さが深刻なのではないでしょうか。
そんなに悩むぐらいなら、人付き合いなんて、いらない。
むしろ、しない方がいい、というような気持ちになるのは、理解できます。
しかし、小学校の現役教師として、私は、友達の存在は、成長に不可欠だと思います。
いや、確信しています。
中学年にもなると、子ども達は、親や教師の大人の権威・価値観への挑戦をします。
反抗期、というよりも、挑戦期とでも言った方がいいのではないかと、私は思います。
そして、友達同士の関係性の中で、たくさんのことを学びます。
大人にとって、都合のいいことも、悪いことも…
ですから、大人にとって、都合の悪いことを避けようとして、大人が友人関係をコントロールしようとすると、子ども達は、友達関係の重要さをよくわかっていますから、大人をごまかすようになってしまうでしょう。
そんなわけで、子どもにとっての友人関係は、大人が思う以上に重要です。
でも、もちろん、そんなにバランス良くできるものでもありません。
ちょっとしたことに、過敏になりやすいものです。
「あ〜もうダメだ…もうひとりぼっちでいるしかない!」
などと、思いつめてしまうこともあると思います。
そんな時、蛭子さんの語る「一人でいる極意」は、心の支えになるのかもしれません。
ただ、「一人でいい」ということばかりに目を向ける必要はありません。
多くの場合、本当は仲良くしたいけど、うまくできない、思い通りにいかない、ということが根っこにあると思うのです。
だとしたら、初めから一人でいい、というのではなく、自分のホンネに正直になり、落ち着いて自己主張をした上で、一人になったなら、それはそれでいい、という「一人でいる極意」が大事なのではないかと私は思います。
興奮せず、落ち着いて自己主張のできる子は、結局、みんなから一目置かれます。
いざという時、頼られることも出てくるでしょう。
そうすると、結局、友達とうまくやれるようになっている、というわけです。
友達がいた方がいいか、いなくてもいいか。
その問いに対する私の答えはハッキリしています。
「友達は、いた方がいい。いや、いなくてはならない」
でも、本当に安心できる友達ができるまでの間には、一人になってしまうこともあっていい、ということではないでしょうか。
2016年
2月
09日
火
あなたのご家庭の「ホウレンソウ」は、どうですか?
ホウレンソウ…
あのおひたしにするホウレン草ではありません。
会社の研修などで、何万回と言われたであろう、「報告・連絡・相談」を語呂よく言ったものです。
このブログを読んでくださっているあなたも、言われたり、言ったりしたことがあるかもしれません。
情報を共有し、共通の目的に向かって邁進できる組織は、きっと結果も出やすいでしょう。
構成メンバーのやる気も高まるでしょう。
部下から上司への「ホウレンソウ」という、一方的な情報の吸い上げではなく、上司から部下に対しても、適切な「ホウレンソウ」がある会社なら、ムードも明るく、いい雰囲気が漂っていそうです。
とはいえ、何でも言えばいいか、というと、そうでもないのではないでしょうか。
会社の経営方針は、取締役が決めるでしょう。
いくら風通しが良いと言っても、現場に出ていく若者社員と部長が経営方針を話し合う、というのは、非効率ではないかと私は思いますし、何より、混乱を招きそうです。
そう考えると、取締役は取締役の、部長は部長の、1年目は1年目の、必要な情報があるのではないかと思います。
これを子育てに当てはめてみましょう。
すると、お母さんは、取締役も取締役、代表取締役です。実質的な…
対外的には、お父さんを社長にしていることは大事かもしれませんが、実質的な経営者は、お母さんだと思います。少なくとも、私はその方がいいと思います。
だとすると、お母さんとお子さんとの情報共有、「ホウレンソウ」は、どうあるのがいいでしょうか?
「今日、学校、どうだった?」
この問いかけは、とても重要で、いろいろな答え方のできる、いいものだと思います。
が、この質問が、プレッシャーになっているお子さんもいるようです。
なぜなら、この質問にどう答えるかで、褒められるか、怒られるか、より細かなことまで詮索されるか、無視されるか、一歩先を心配してしまうからです。
これでは、安心のできる「ホウレンソウ」になりません。
お母さんの(取締役の)、評価基準が固まっていて、子ども本人にとって喜びを感じられるものとズレていることが不安になってしまうわけです。
そこで、「ホウレンソウ」のうち、「ソウ」に注目したいと思います。
報告・連絡は、どうしても、下から上、あるいは、業務連絡という性質を帯びやすいです。
が、相談は、対等な関係性です。
「これこれについて、こうしたいんだけど、どうしたらいいと思う?」
この問いかけは、双方向性があります。
(もちろん、子ども達は、お母さんはどう言ってほしいのか、と読もうとしますが…)
このブログでも、時々、書いていますが、私は、困った時には、本当に子ども達に相談します。
なぜなら、教室は子ども達が成長する場だからです。
我々も大いに成長させてもらいますが、主体は、子ども達一人一人です。
先生やらご両親やら、友達やらのせいにするのではなく、自分たちの問題として、真剣に取り組んでほしいからこそ、私はためらうことなく、子ども達に相談します。
初めは上手くいかないかもしれません。
ですが、自分の人生の当事者は、自分なんだ、と常に意識することは、とても大事だと私は思います。
ぜひ、「ソウ」を上手く使った「ホウレンソウ」を意識していただきたいと思います。
2016年
2月
10日
水
子どもの心をたくましく、しなやかに育てるために知っておいてほしい
「心の代謝」理論
ダイエットに通じる、心の育て方とは…
生命を維持するためには、代謝が不可欠です。
代謝とは、外部から取り入れた栄養素をエネルギーに変換して、消費するシステムのことです。
何も食べなければ、生命を維持できない…
当たり前のことです。
さて、子どもの心の成長にも、代謝が不可欠だと私は思います。
これが、「心の代謝」理論です。
何かしらの働きかけが、相互にあることで、心には刺激が加わります。
もちろん、嬉しいこと、楽しいことばかりではないけれど、心に加わった刺激は、心をたくましく、しなやかにするために、すべて役立ちます。
ところで、代謝の良い人と悪い人、というものがあるそうです。
代謝の良い人とは、栄養素をエネルギーに変換する効率の良い人、どんどん消費して、太りにくい人と言えるようです。
一方、代謝の悪い人とは、良い人の逆ですから、栄養素をエネルギーに変換する効率の悪い人、消費せず、溜め込んでしまう人と言えます。
この考え方を、「心の代謝」理論に当てはめてみます。
すると、
心の代謝の良い人は、入ってきた刺激やあった出来事をどんどん、消化して、ウジウジせず、気持ちを次々、新しい方向に向けられる人と言えそうです。
逆に、心の代謝の悪い人は、入ってきた刺激や出来事を消化できず、溜め込んでしまう人と言えます。
やはり、「心の代謝」理論でも、代謝を良くして、いつも前向きに、イキイキしていたいものです。
では、どうすればいいか。
ダイエッター向け、代謝改善のヒントを探してみると、要は。
・適度な運動
・気分転換
・バランスの良い食事
であるようです。
これは、そのまま、「心の代謝」理論でも適用できそうです。
・体を動かすから、元気になります。
・気分をどんどん変えていくから、機嫌良くいられます。
・バランス良く、いろいろなタイプの子と関わり、いろいろな体験をするから、バランス良く心が育ちます。
結局、こういう当たり前のことを、当たり前に続けることが、大切だと私は思います。
2016年
2月
11日
木
モノで子どもを動かそうとするのは、賄賂と同じ!?
賄賂を公務員に送れば捕まります。
公務員に限らず、何らかの見返りを期待、要求して金品を送れば、同様でしょう。
では、金品を送って、子どもに何らかの行動を期待するのは、賄賂になるのでしょうか?
もちろん、なるわけありません。
当たり前です。刑法上の罪になるか、ならないか、という点では、罪になるわけありません。
が、ちょっと心の片隅に置いておいてもいい「たとえ」なのではないでしょうか。
金品で子どもの言動をコントロールすることが常態化すると、刑法上の罪以上に、子どもの将来にとって、大きな罪になってしまうかもしれません。
そもそも、子どもに何らかの言動をさせることは、健全な子育ての一環として、あるべきことです。
いいこと、いけないことを保護者の責任として、保護者の価値観を押し付けることは、常識的な範囲で、必要なことですね。
つまり、いわゆる、しつけや教育において、交換条件のようなものは全く不要なのです。
自信を持って、堂々と、強要して構いません。
が…
大人の側に、何かしらの罪悪感や迷いがあると、「交換条件」を提示したくなります。
「漢字テストで連続3回、100点だったら、DSのソフトを1つ買ってあげるね」
とりあえず、子どものモチベーションを上げるのには、効果があると思います。
しかし、もう、おわかりの通り、これが当たり前になると、条件の交渉も当たり前になりますね。
まあ、子どもの方も、それなりに判断力がありますから、普通は、自分でこれはおかしい、と気づくものです。
とはいえ、どうしても楽な方に流れるのが、普通ですから、なかなか、子どもが、自発的に、
「そういうのは、やめよう」
などと、言えないものですね。
もちろん、「社会通念上、一般的な儀礼的贈答品」は、問題ありません。
そういうことまで含めて、ダメダメ、では、息苦しくてたまりません。
どこまでが、社会通念上、一般的なのか、賄賂になってしまうのか、の判断には難しさがあるにせよ、親子関係でのモノのやり取りは、多少はあった方がいいと私は思います。
「え?こんなモノ、すぐに飽きちゃうし、ムダなのに…」
と思っても、多少のモノのプレゼントは、必要でしょう。
問題は、そのモノを使って、子どもの言動をコントロールしようとしているのか、単純に子どもの気持ちに応えて、そのモノをあげたいのか、というところにあります。
見返りの期待をゼロにするのは、無理ですが、子どもを動かすために金品を渡すのは、場合によって、賄賂以上の問題を生じさせることを頭の片隅に置いておきたいものです。
2016年
2月
12日
金
ピンチはチャンス。
言い古された言葉かもしれませんが、時々、思い出したいものです。
では、具体的にどうするか。
「この子は、このピンチに、何を訴えたいのか?」
を考える。
ピンチこそ、起死回生のチャンスと言います。
私も、教室で、さまざまなピンチと向き合ってきて、そう思います。
クレームは、宝の宝庫とも言います。
お客様からのクレームに誠実に対応することは、隠れていた業務の課題に気付き、解決するチャンスですし、お客様との信頼関係を築くチャンスにもなるからだそうです。
実際、私自身、ワイシャツを仕立てた時に採寸ミスがあり、お店に相談したことがあります。
その時の対応のよさから、私はすっかり、虜になってしまった経験があります。
さて、お子さんのピンチは、私のワイシャツの重要さとは比べるまでもありません。
その子の人生に大きな意味を持つ、ターニングポイントです。
もし、今が、「ピンチだ!」と思われるなら、まず、
「この子は、このピンチという状況を通して、何を訴えたいのだろう…」
と考えてみることをお勧めします。
多くの場合、
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう…」
と、悲しくなったり、
「誰のせいで、こんなことになったの!?」
と、腹を立てたりすることになります。
それは、生身の人間の心として、大いに理解できます。
ですから、その悲しさや怒りは、当然のこととして、とことん、吐き出すことが大事ではないでしょうか。
ただし、相手は、お子さんにそのことを言わない、直接的な関係の薄い人や、信頼のおける人がいいと思います。
そういう感情をぶつけられた相手が、焦って、お子さんにお母さんの不安をぶつけてしまうと、逆効果です。
何とか、気持ちを鎮めたら、で構いません。
「この子の訴えたいことは何か」
これを冷静に考えると、大きなヒントに気付くことがあります。
コツは、誰の責任も問わないこと。
一番、気をつけていただきたいのは、
「私の育て方のせいで、こうなった」
と、お母さんが思わないことです。
お子さんの訴えたいことは、多くの場合、急に解決できないこと、相手も関係していることです。
ですから、解決には、少し時間がかかることが多いです。
お母さんの目がお子さんに向いている時、それは、「対立」になりかねません。
しかし、お子さんの向いている方に目を向ける時、その関係は、「協力」です。
お母さんの目が、二人の前に向いたことは、あえて言わなくても、お子さんに伝わるのではないでしょうか。
子ども達のしでかすピンチは、ヒントに満ちています。
先々、たくましくお子さんが自分らしさを発揮して生きていけるように、
「今」
のピンチをチャンスに変えたいものです。
2016年
2月
13日
土
お子さんの血液型は何型?
2016年
2月
14日
日
多くを語らなくても、本当に魅力があるなら、人は集まる。
逆に言うと、あんまりたくさんしゃべると、かえって人は離れる?
中国の歴史書である「史書」に、
「スモモは何も語らないけれど、その甘さや魅力で人が自然と集まり、道ができてしまう」
(桃李、物言わざれども、下、自ずから蹊を成す)
という意味の慣用句が載っています。
私は、この言葉がとても大事だな、と思っています。
私自身、大いに気をつけなくてはならないのですが、不安な時ほど、言葉が増えます。
「今日は、どうも子どもが落ち着かないな」
と思う時は、同時に、私の言葉も多い時です。
どちらが先かは別として、お互いの心の波が共鳴して、言葉が増えてしまうようです。
大人であり、教室の安全を預かる私としては、まず、自分が先に口数を減らす努力をします。
すると、次第に落ち着きを取り戻せることが多いです。
また、クラスで子どもたちを見ていても、不安に根ざした口数の多い子は、周りに、何かしらの違和感を与えるようです。
これはお調子者のおしゃべりとは、少し違います。
不安が根っこにありますから、何かしら自慢気だったり、攻撃的だったり、自嘲っぽさがあったりします。
そんな時、私はその子に、
「わかったよ。ちょっと口を閉じてみて」
と言い、何か読書なり、勉強なり、他のことに気を向けるように促します。
一旦、気持ちを他に向けて、言葉を止めないと、無用なトラブルが生じることが多くなります。
もちろん、私が見ていなければ、そんなことはできませんから、妙にアピール感の強い子は、どうしても、トラブルを抱えがちです。
ですから、
「そんなことをしなくても、十分、あなたは素敵」
「大丈夫」
という心持ちをベースにして、とりあえず、口数を減らしてみることが心を整える秘訣です。
そして、一気に自信をつけてあげよう、などと焦らずに、長い目で関わっていくことが大切です。
ご家庭で、お子さんの口数が妙に多かったり、何かしら言葉の端々に、「?」という違和感を感じたら、そんな考え方で、お子さんに接してみていただきたいな、と私は思います。
2016年
2月
15日
月
気持ちは吐き出せばいい、というものではないのでは?
熟成を経ると、まろやかに、味わい深くなっている!
「悩みがあったら、何でも言ってね!」
そう言ってもらえると、とても気持ちが明るくなれそうです。
私自身、そう言ってもらって、実際に相談し、とても心が軽くなった経験もありますし、
逆に、何でも言ってほしい!とも思っています。
が、
その逆も、また必要なのではないでしょうか?
たまったものを吐き出すことは、確かにいいのですが、あまりに焦るのも考えものです。
ためて、ためて、ためておくと、熟成して、まろやかになることもあるように思います。
子どもの話を聞いていると、
「うーん、聞きすぎても、堂々めぐりになるし、ちょっと待つかな…」
とか、
「今は、時期じゃないな」
と感じることがあります。
先日も、口数の少ない、ある女の子が、ふっと、私に言ってくれたことが、私の心に刺さりました。
「私は、嫌なことには目を向けない。そうすれば、嫌なことを言ったり、やったりする子も、素直になりやすいと思う」
成長したなあ…
と感じました。
もちろん、この熟成方式には、不安もあります。
本当は言いたいこと、言うべきことを我慢させて、傷を深めてしまう、という危険性です。
傷を深めてしまうのか、心の中に留めて、熟成することで飛躍するのか、そのあたりの見極めは、なかなか難しいものがあります。
そこで、1つのヒントになるのは、
「まずは、一度、言ってみよう、と促す」
ことです。
初めから、熟成を狙わず、まず、言ってごらん、言うと心が軽くなることが多いよ、と話すことを勧めることが第一選択だと思います。
その結果、お子さんが言いたがらないなら、ちょっと熟成が必要です。
もちろん、その都度、様子は見ながら、ということです。
言うように促しつつ、待つ時には待つ、という感覚でしょうか。
つい、お子さんに話をさせたくて、させたくて、仕方ない、というお母さんには、ちょっと視点を変え、心のゆとりになる話かもしれません。
2016年
2月
16日
火
この言葉が出てきたら、要注意。
「こうすべきでしょ!」
「こうするのが、当たり前でしょ!」
視点の違う人もいますよね。
まずは、気持ちを受け止める。
私は、自分のお預かりしている子ども達には、自分を安心して出せるようになってほしいな、と思っています。
ということは、当然、ケンカなども発生するわけです。
そんな時、この言葉が出てくることが、よくあります。
「こういう時は、そうするのが普通でしょ!」
「そんなのおかしいよ、こんな言い方される必要なんてないでしょ!」
あ~なるほど~と、思える時もあれば、
それは、言いすぎでしょ、と、言いたくなる時もあります。
が、いずれにせよ、それぞれの立場で感じたことについて語っている以上、私まで、
「こうすべきだよ!」
と、強く要求すると、納得できないものです。
まあ、昂奮状態にあるわけですし、まだ子どもなんですから、そんなに簡単に相手の立場を理解できなくてもいいのですが、せめて、自分の言い分と、相手の言い分を冷静に受け止める練習はしたいものです。
考えや価値観を押し付けられると、嫌なものです。もちろん、私もそうなのですが、その「押し付け」は、
「~べき」
「~に決まってる」
「~が当たり前」
「~できないなんて、おかしい」
という言葉に表れます。
それぞれの立場で、それぞれの考えを主張しているのですから、なかなか退けません。
ともすると、声の大きい人に黙らせられることになります。
すると、不満が残ります。
では、どうするか…
お母さんという立場では、あまりに冷静すぎるのも考えものです。
お宅で、友達への不満を語っているお子さんと向き合っている時は、まず、100パーセント、お子さんの味方をしてあげていいのではないかと私は思います。
よくないのは、その言葉を100パーセント、事実として理解し、しかも、相手のご家庭に何らかの直接的な解決の取り組みをすることです。
まず、困っているお子さんの状況や気持ちを100パーセント、あるいは120パーセント受け止める。
そして、その言葉の意味は、少し時間を置いてから考えてみるのが、オススメです。
例えば、一晩寝てみるとか、二、三日、間を空けてみる、というようなことですね。
それからでも遅くはありません。
「その時、相手はどういう気持ちだったの?」
「相手はどんな状況だったみたい?」
と、相手について考えてみる時間を取ることは、とても有意義だと思います。
「お母さん」は、お子さんにとって、かけがえのないものです。
私たち教員は、どんなに親身になったとしても、お母さんではありません。
冷静に、公正な「判断」を下す立場です。
でも、お母さんは違います。
冷静さも、公正さも、判断も必要ですが、それらのベースは、「受け止め」なのではないかと、私は思います。
「正しく」導くことに一生懸命になると、みんなで「べき論」に夢中になってしまいます。
いったん、気持ちを受け止めてから、「べき論」に入ってみても、十分、間に合うのではないでしょうか。
2016年
2月
17日
水
進学校ではないのに、進学実績を出す高校の話に感じたこと
大切なのは、「今」
そして、 結局、一人ひとりの違いをよく見る。
西日本新聞に、
「もう一つの挑戦(2)離島 小さな町の受験生は不利か」
と題した記事が掲載されました。(こちら)
人口約2600人の長崎県は、五島列島の小値賀島(おじかじま)にある、長崎県立北松西高校の話です。
この高校の今年度の3年生は、わずか12名。
そのうち、大学進学希望者は4名なのだそうです。
そんな状況の同高校で、毎年のように九州大学などの国公立高校に合格者を出しているのだそうです。
1学年数人の進学希望者なのですから、1人でも立派なことだと思います。
その数名の進学に向けた学習を預かるのは、塾でも、家庭教師でもなく、高校の先生方です。
そして、小学校からの一貫した連係が、学力の向上に役立っている、ということでした。
少人数学級の功罪は、教育研究者の間でも、評価は分かれているそうです。
私の勤務する小学校では、少人数化により、きめ細やかに対応することに重きを置き、1学年20名学級化を実施しました。
その結果、中学受験の実績が上がったのかどうか、それはわかりませんが、確かに、1人1人の違いを受け止めることは、大いにしやすくなったのを感じます。
約2600人というと、かなり少ない人数なのは、おわかりいただけるでしょう。
東京都で本土にある唯一の村である檜原村の人口は約2300人ですから、同じぐらいですね。
檜原村は、武蔵五日市駅からバスなどで約30分とのことですから、不便とはいえ、立川に出るまで、1時間少々で、行くことも可能です。新宿だって、ちょっと大変ですが、通学できないわけではありません。
しかし、小値賀島は、そうはいきません。
最も近い進学校は、佐世保にあるそうですが、そうなると、下宿となり、家庭の負担は大きくなります。
上記の記事でも、進学校への進学は断念した高校生の話が紹介されていました。
要は、
「そうするしかなかった」という現実的な条件と、
「なんとしても、こうするんだ」という強い決意が重要。
ということなのだと思います。
最近は、少子化が進み、多くても2人兄弟・姉妹まで、一人っ子も多い時代です。
幼稚園も少人数化し、大人数でもまれることの少ない状況が起きやすくなっています。
そこで、お母さんの中には、あまり温かい環境に入れてしまうと、将来、荒波の大海に出た時に大変!と心配される方もいらっしゃいます。
それは当然のご心配だと思います。
が、少人数には少人数なりの大変さがあります。
あまりに将来に備えすぎるのも、バランスを欠くでしょう。
「今」、お子さんの気持ちを受け止め、力を発揮させるために、どんな環境がいいか。
あくまでも、「今」にフォーカスを当てると、少人数などの温かい環境が必要かどうか、わかるのではないでしょうか。
2016年
2月
18日
木
あなたの決断は全て正しい。
なかなか、思えないかもしれないけれど、それぐらい思わないと、
あなたが、「決めてあげる」から、子どもはやれる。
「この決断で、よかったのだろうか」
と、瞬間、瞬間に決めることは、精神的に緊張を伴うことです。
まぁ、決断というほどのことは、そうないとしても、「決定」
例えば、
・今日は、あと2問進むかな…
・宿題、1つ減らすかな…
・このケンカ、この子を叱るかどうか…
などなど、迷うこともたくさんあります。少なくとも、私には…
だとしても、私達は、毎日、毎日、瞬間、瞬間、
それを踏まえて、私が感じていることは、
「子どもにとって困るのは、決めてくれないこと」
なのだということです。
この子に決めさせます、ということは、ともすると、子どもに正しい選択をするため、と言う錦の御旗を掲げて、実のところ、
さて、お母さんの話にしましょう。
お母さんも、同じように、いえいえ、
もし、あなたもそういう瞬間があるのなら、絶対に、
「私の決断は全て正しい」
それは、お母さんの価値観の押し付けではありません。
むしろ、責任を持つ、ということです。
その決断の結果、想定外の、困った結果が出たとしたら、
少なくとも、その瞬間は、ベストを尽くして、決めたのです。
迷ったり、後悔したりする方が、
間違えることも含めて、自信を持って、
2016年
2月
19日
金
「なまはげ」から考える、「恐怖」が子どもに与える影響
なまはげ…
あの恐ろしい鬼の面とふりかざした包丁を思い浮かべることのできる方も多いでしょう。
あの経験が、子どもの心に、大きな傷をつけるか、つけないかは、わからないけれど、怖さだけでしつけよう、とすることの方が問題なのではないかと思います。
先日、ニュースで、なまはげにすごまれて(?)、泣き叫ぶ子どもの姿を見ました。
ご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか。
あの泣き叫ぶ子どもの姿を見るにつけ、私は、
「これって、子どもの心に傷を残さないの?」
と、思います。
まあ、運動を起こして、やめるべきだ!
とまで、問題視しているわけではありません。
伝統文化の一つでもあるでしょうから、なくなった、となれば、部外者とはいえ、少しさみしい気もします。
ふと、関心を持って調べてみたところ、同じような風習は、秋田や山形など、日本海側の地域でおこなわれているほか、外国にも同様のものがあるとわかりました。
いずれにせよ、幼児期に恐怖体験を植え付け、何らかの「悪さ」をした時に、
「なまはげが来るぞ」
と脅して、自制させる機能を持っているようです。
私自身は、「脅し」によるしつけの効果は限定的だと思っていますが、まったくないとも思いませんし、多少はあった方がいいと思います。
ただ、何事も、ワンパターンでは飽きられてしまいます。
何かやるたびに、
「なまはげが来るぞ」
他の地域なら、
「お父さんに叱られるよ」
「そんなことしたら、叩くよ」
というような、「脅し」をちらつかせても、
「はーい。別にいいよ」
という反応になってしまう恐れがあります。
いや、そういう反応が表に出れば、いい方です。
「わかったよ」
と口ではいいながら、内心、
(はいはい、いつもの脅しでしょ)
と思われてしまうと、もはや、悪影響しかありません。
ですから、なまはげであれ、お父さんのカミナリであれ、お母さんの涙であれ、その怖さだけで、子どもをコントロールしようとするなら、そこに問題があると思います。
そうなれば、なまはげの怖さの体験は、より強化される恐れもあるのではないでしょうか。
私の勤める学校でも、かつては、今ではありえないような、猛烈先生がいたそうです。
が、同窓会に集まる皆さんは、それを大笑いして、語らっているのです。
つまり、その教室・空間は、子どもにとって、安心な場だからこそ、猛烈ぶりを自慢しあえるのです。どれだけ激しかったか、自慢し合えるというのは、ある意味で、素晴らしいような気がします。
もちろん、これは体罰礼賛などではありません。
今日の記事の趣旨通り、「脅し」の教育的効果は、限りなく限定的だ、と私は考えています。
なまはげも、お父さんのカミナリも、お母さんの涙も、ある種の伝統行事として、ファミリーの中で、ほほえましいもの、という共通理解があり、大人の心理的に安定した環境があるならば、大人になった時に、懐かしい思い出になるような気がします。
2016年
2月
20日
土
自信と優越感は別。
お子さんに自信をつけたいと思っているお母さんへのヒント
つまり、できることがあるから大丈夫、なのではなく、
2016年
2月
21日
日
裁かない。
ただ、聞く。見る。
子ども達が、私に語った嫌な大人の特徴。
それは、「決めつけられること」でした。
思えば、私も、そういう大人は嫌でした。
一番、わかりやすいのは、
「宿題、やりなさい!」
「今、やろうと思っていたところだよ〜」
という会話です。
実際、宿題をやろう、やらなくちゃ、と思っていたのは事実なのでしょう。
しかし、大人の目には、そう見えません。
説得力がありません。
ランドセルを放ったまま、ゲームに1時間も熱中していれば、信じてもらえないのも当然です。
大人になった今なら、そう思えても、子どもは、なかなか難しいですね。
「まったく、大人はこっちの事情もわかってくれない!」
と感じてしまうのも、無理はないでしょう。
だから、私は、
「ただ、聞く。見る」
ことを提案したいのです。
「宿題、どうするの?」
とお子さんに聞きます。
すると、お子さんは、なんのかんのと、言い訳をするでしょう。
それに、いちいち、反論したり、反証したりするのではなく、
「なるほど」
とだけ言い、見守ります。
裁くから、決めるから、不満も湧いてくるようです。
宿題をやることは、裁いたり、決めつけたりする前に、当たり前のことです。
やれない合理的な理由や事情があれば、翌日にやるなり、先生に電話の一本でもかけるなりすればいいだけのことです。
「ただ、聞く。見る」
私も、いつも頭の片隅に置いて、努力しています。
2016年
2月
22日
月
笑顔が一番、大事。
でも、いつも笑っていなくてもいい。
お母さんの笑顔は、子どもにとって、かけがえのないものです。
でも、笑顔になれない時だって、あるに決まっています。
腹が立ったり、悲しくなったり、悔しかったり、嫉妬したり…
すべてホンネがいいのではないでしょうか。
あ~今日は、子ども達が明るく、前向きにがんばったな~
と思える日は、私がよく笑う日でもあります。
私達の仕事は、授業を中心とした学校生活を充実したものにすることなのですが、結局、私達自身が笑顔で、楽しんでいないと、子ども達も楽しめないように思います。
しかし、24時間365日、笑顔というものでもないでしょう。
子どもの前ではいつも笑っているとすると、それは心のどこかに歪みもたまるように思います。
要は不自然です。
それに、ご想像できるでしょうが、子ども達は、いろいろなことをします。
長い目でみれば、悪さではなく、成長上の大きな必要なステップではあるのですが、笑顔では不適切な場面というものもあります。
ということで、笑顔は一番、大事だと思いますが、笑顔でない時があったっていい、のだと思います。
辛い時は辛いし、悲しい時は悲しいし、腹が立った時は腹が立つのですね。
どうせ、子どもには大人の本心は伝わっているのですから、顔で無理やり笑ったとしても、子どもには、大きな違和感を与えてしまうようです。
上級生ともなれば、面と向かって言わずに、内心で、
「あ、ホンネでしゃべってないよね…」
としらけて考えるようにもなります。
どうせバレているのですから、素直に、正直に、感じたことが相手に伝わってもいいのではないでしょうか。
この、ともすれば「開き直り」が、子どもの安心につながるように私は感じています。
2016年
2月
23日
火
子どもの心を静めるヒント
代わりに言葉にしてあげる。
今日のヒントは、低学年以下の子を対象にしたものですが、場合によっては、高学年どころか、思春期を経て、大人でも、場合によっては、うまく使えるかもしれません。
昂奮している子にとっては、早く気持ちを静めたいのにできないのは、苦しいことです。
そんな時、
「どうしたの?何があったの?説明してごらん」
などと、どうにか事情を把握しようとされるかと思います。
が、興奮は興奮を呼ぶので、なかなか、うまく説明できないことが多くあります。
ケンカして泣いている低学年の子を想像していただけると、わかるかと思いますが、泣くばかりで、結局、何があったのか、誰が、どうしたのか、ちっともわからない、ということは、よくあります。
まあ、これは低学年の子に限った話ではないかもしれません。
大人だって、腹にすえかねることがあった時は、昂奮のあまり、結局、詳しいことがわかるまで、時間がかかることもあるような気がします。
さて、そんな興奮状態のままでは、気持ちを切り替えることもできません。
そこで、オススメなのは、気持ちを代弁してあげることです。
しかも、最初は、
「おや~相当、嫌なことがあったようだね…」
と、余裕のある様子で、声をかけるといいと思います。
大人の側が興奮していては、さらに興奮の度合いを高めるだけです。
まず、余裕です~という様子で、動きをゆっくり、大きくするのも大事でしょう。
さらに、
「嫌なことがあったの?」
ではなく、
「嫌なことがあったように、私には見えるよ」
という、「私」のメッセージを投げかけます。
これは、船から海に落ちてしまった人に、浮き輪を投げるのと同じだと思います。
「おぼれてますか?浮き輪はいりますか?」
とは聞きませんよね。
とりあえず、浮き輪を投げますよね。
「嫌なことがあったようだね」
という言葉は、これから、あなたの興奮を一緒に静めて、気持ちをなだめていくよ、という合図の浮き輪です。
もちろん、「私」には、「嫌なことがあった」ように見えましたが、本人は違うかもしれません。
嫌、というより、悲しい、とか、腹が立つ、のような言葉の方がしっくりくるかもしれません。
そうであれば、首を振ったり、あえて反応しなかったりという反応があるでしょう。
その時は、
「じゃあ、〜なの?」
と、いい反応があるまで、聞いてあげればいいと思います。
ここまでするなんて、甘やかしている!
と、思われるかもしれません。
たしかに、そう思えて当然です。
が、私が思うのは、先々、自分の言葉で困っていることを言えるようにするためにこそ、今は、あえて、手を貸している、ということです。
手を貸してもらい慣れることは、依存癖をつける、という考え方もありますが、私の経験では、依存させないから、いつまでも依存してしまう、ということなのです。
ですから、将来、お子さんが自分のことを自分で主張できるためにこそ、「今」は、あえて代弁してあげることが大切なのだと思います。
2016年
2月
24日
水
ゲーム機バキバキ事件に思う、「制裁」の効果
ゲーム機をバキバキにする程の怒りは、さすがに人を動かすと思います。
が、そこまでやってしまう人なら、そういう怒りは、よくあるのではないかと思われ、そうだとすると、慣れてしまって、効果はなくなるのではないでしょうか。
バイオリニストの高嶋ちさ子さんが、2月12日付東京新聞に書かれたコラム、「ゲーム機バキバキ事件」がネット上で、大炎上した、との話を見かけます。
このような話は、高嶋さんだから大炎上したのであって、世の多くのご家庭で、よくある話なのではないかと思います。
まさか、バキバキまではしません!
とおっしゃる方も、ゲーム機没収ということなら、ご経験もあるのではないでしょうか。
しなくてはいけないけれど、したくない。
そういうことは、たくさんあります。
自分から、進んでやってほしいけれど、なかなかそうもいきません。
そこで、何度も何度も、言う羽目になり、お互いに辟易してしまうこともあるでしょう。
最終的には、雷を落とす、お楽しみを取り上げる、あるいは、成功報酬をぶら下げる、ということになりがちです。
こういう方法は、ある一定の効果があるように私は思います。
が、それは頻度が少なければ、ということです。
「結局、お母さんは、怒鳴って終わりだからな~」
と子どもに思われてしまえば、効果はなくなります。
むしろ、この怒りさえすぎてしまえば、もういいや、ということになります。
そもそも、怒っている人は、どうも、「怒っている」というだけで、大きく損をしているようです。(もちろん、自戒をこめて言っています)
どれほど、怒っている内容が正当なものでも、「怒っている」というエネルギーが、人にダメージを与えるのでしょう。
人を呪わば、穴二つと言いますが、
「これだけ、お母さんは怒っているのよ」
というエネルギーの放出は、内容よりも、怒りのエネルギーへの拒否感を誘発してしまうようです。
ですから、ゲーム機バキバキの効果は、というと、1回や2回は効果があるでしょうが、3度目はもはや、ダメなのではないかと思います。
何とか、落ち着きを保って、子どもに話を伝えたいものです。
それにしても…
本論とはずれますが、このバキバキ事件を受けて、
「やりすぎ」「虐待だ」
という声が上がるというのも、いいような、悪いような、複雑な気持ちです。
「やりすぎだ」
というのは、わかります。
しかし、
「虐待だ!」
というのは、少々、過剰な気もします。
実際、そういう小さな出来事の奥に、ひどい虐待が潜んでいることもありますから、慎重になった方がいいとは思いますが、それにしても、ちょっと批判も行きすぎかな、という気がしました。
2016年
2月
25日
木
「こうあってほしい」
「こうなるはず」
という期待、固執をどこまで手放せるか。
3か月に1回ぐらい、手放してしまえば、ステップアップのきっかけになる。
固執や執着が、悩みの素だとよく言います。
だから、それらを手放すことができれば、心は幸せ、と言いますが、そんなことができれば、苦労はしません。
自分自身のことなら、まだそう思えたとしても、大切なお子さんの成長を考えると、期待を手放してしまったら、それはまた、問題が生じてしまうでしょう。
この子なら、これぐらいはできる…
そう、私が思っても、時間が思ったよりもかかるかもしれません。
実は、私が期待した特性は、その子のらしさが活きる部分ではないかもしれません。
でも、ちょっとうまくいかないからといって、すぐに手放してしまったのでは、成長のステップを上がることができません。
このあたりのバランスは、とても難しい。
いつも、そう感じます。
まして、親子の間のことです。
そう簡単なことではないと思います。
いろいろな感情が入ってしまい、考えあぐねてしまうことも多いのではないでしょうか。
ということは、まず、そもそものベースとして、期待や固執を手放すことはムリということなのだと思います。
ですから、イライラしたり、悲しくなったりするのは、当然のことなのでしょう。
が、ふと気付いた時、イライラしたり、悲しかったりすることを整理して、
「うーん。少し、期待をし過ぎて、苦しめてしまったかな?」
と考えてみると、どうも、ちょうどいいガス抜きになるのではないか、という気がします。
私の勤める学校では、年に二回、個人面談をおこなっていて、20分程度ではありますが、お話をうかがっています。さらに、いつでも、希望があれば、面談をしています。
そんな時、私から、
「もっと期待を手放してください」
とお願いするのではなく、丹念にお話をうかがっていくと、ある時、
「私が、期待しすぎてるんですよね…」
と、ボソッと話してくださることがあります。
その気づきがあったら、すぐにトラブルはおしまい、というわけではありませんが、きっと次のステージに上がるきっかけになるのだろうな、と思います。
ですから、毎日、毎日、イライラして、悲しくなって、嬉しくなって、というのは当然だけど、3か月に1回ぐらい、手放す機会を作るのは、進歩の大きな原動力になるように思っています。
2016年
2月
26日
金
いつも、子どもの話をじっくり聞いているのに、なぜ、こんな反応?
真剣に聞いてないわ…
それは…
「慣れてる」
から。
慣れ、というのは恐ろしいものです。
「女房と畳は新しい方がよい」
という、とんでもなく不謹慎なことわざもありますが、慣れてしまうと、新鮮味がなくなり、飽きてしまうことは、よくあるようです。
そういう意味では、お子さんとの関わり方も、共感的であれ、強圧的であれ、慣れてしまうと、どうもうまくいかないようです。
もし、あなたが、お子さんの話をじっくり聞くタイプなら、逆に、有無を言わさぬ強さが子どもの心を動かす可能性が大いにあります。
ということは、あなたが、お子さんにたいして、いつも厳しくおっしゃってきたなら、逆に、とことん、受容的に話を聞くと、パタリと改善する、なんてこともあり得ます。
北風と太陽は同じ、という記事でも書きましたが、共感的なのがいいか、強圧的なのがいいか、というより、いつものパターンになってしまったらダメ、たまには逆を使うといい、ということが大事なのだと思います。
ただし、ここでポイントにしたいのは、「たまには」ということです。
私は、共感的すぎていけない。
だから、今日から、強圧的になる。
という決意は、「らしさ」を殺すことになるように思います。
今がダメだから、逆に変わろう!
というのは、やはり無理があります。
逆になったけど、やっぱりダメだから、また逆に変わろう!
これでは、360度回って、同じことの繰り返しです。
それそも、ベースにあるのが、共感的なら、共感性を大切にし続ける方がいいように思います。
一貫性があると、結局、子どもは信頼できます。
「女房と鍋釜は古いほどよい」
ということわざもあるようです。
長年、一緒に時間を積み重ねる価値は、小手先の対応ではどうにもできない味わいがありそうです。
もしも、
「おや?」
と、お子さんの反応が気になった時は、いつもと逆の関わり方を試してみる価値はあると私は思います。
2016年
2月
27日
土
お母さんから離れられなくて、修学旅行がイヤ?
分離不安への対処についてヒント…
お子さんの好きなこと、困っていることを、一緒に、場合によっては、お母さんがやってあげる。
「楽しい修学旅行を嫌がる子どもが急増中!その理由は?」と題した記事があります。
(こちら)
この記事では、小学校上級生、おそらくは6年生での修学旅行に行きたがらない子ども達について論評しており、その原因として、母子分離の不安を挙げています。
私の勤める小学校では、2年生から6年生まで臨海学校を行っており、1週間近く、寝食を共にします。
「え?2年生からですか!?」
と、初めは皆さん、驚かれます。
が、少し前までは、1年生から行っていたのです。
それぐらい、自然の中で、子ども同士、子どもと教師たちが深く交わることを重視しているわけです。
2年生で初めての臨海学校を迎えた子どもたち。
心境はいろいろです。
もちろん、お母さんと離れる不安で、嫌がる子もいます。
ところが、いざ、バスが出発する時、涙で頬を濡らしているのは、お母さん方なのです。
まあ、これは、だいたい毎年のことです。
このことを臨海学校前の保護者会でお話しすると、皆さん、お笑いになるのですが、それでも、やっぱり、ハンカチで目を押さえてのお見送り儀式となります。
この分離不安については、皆さんも耳にされたことがあるのではないかと思います。
2年生はおろか、まず、小学校入学直後、教室になかなか入れない子は、よくいるものですし、それ以前に、幼稚園に行きたがらない子もいるものです。
さて、そのような場合、お母さんとしては、
育て方を間違えたのか…
とか、
異常があるのだろうか…
などなど、いろいろな不安を持たれるかと思います。
こういう時も、原因を探ったり、お子さんを責めたりせずに、
「満足するまで付き合うか」
とハラを決めることが大切なようです。
私の勤める学校の場合、お母さんが一緒に登校したり、教室で過ごすことも可能なのですが、学校によっては、そういうことをとても嫌がられる場合もあるようです。(私の勤める学校でも、教室には入っていただいて何も問題ありませんが、臨海学校などの同行は不可にしています)
学校によって、できることは変わってくるでしょうが、お子さんが何かで満足するまで時間をかける必要がありそうです。
ですが、そうはいっても、ずっと家庭内で一緒だったり、毎朝のように嫌がられると、お母さんが、精神的に追い込まれてしまうのが気がかりです。
そこで、具体的にどうするか。
私は、2つご提案します。
・お子さんと一緒に、お子さんの好きなことをする。
・学校の宿題や提出物の準備を一緒に(場合によっては、お母さんが)やってあげる。
これは甘やかしではありません。
飛行機が離陸の前、十分に滑走するのと同じ、「準備」あるいは、その前の「整備」なのです。
私は、教室で子ども達と過ごしてきて、何かをさせたい、と思うなら、させたい人が、一肌脱がなくてはならない、と思うようになりました。
宿題をなかなかやって来ない。
だから、やらせる。
けれど、言っても言っても、どれだけ叱っても、やっぱり、やって来ない。
そんな時、やって来なかったノートに、初めの数問、
「こうやるんだよ」
と、私がやってあげると、それからやってくるようになったことがあります。
車は、動き出す時に、一番、エネルギーを消費します。
坂道が急なら、後ろから押してあげる必要があるようです。
そんな後押しが必要なお子さんは、弱いわけではありません。
できない自分と直面したくないだけなのではないでしょうか。
ですから、そんなお子さんを温かくケアすることは、甘やかしなどではなく、理にかなった、適切なサポートなのだと私は思います。
2016年
2月
28日
日
怒ることも叱ることも同じ。
先生、あの子を叱って!
話を聞いてみると、なるほど。確かに、よくない。
感情的になることが怒る、筋を通しているのが叱る、
教室も同じです。
2016年
2月
29日
月