怒られる幸せ
謝る喜び
怒られたくない!
謝りたくない!
確かにそうだけど、怒られることや謝ることは、素晴らしいのかもしれない。
私、嘘をつきました。
昨日の
ブログで、買ったばかりのネクタイを、今日、しめて行く、と書いたのに、ノータイでした…
朝、いろいろなコーディネートをしてみたところ、ネクタイの色が、買ったものでは合わなかったのです。
そして、中央線の電車の時刻は迫ります…
「いいや…ノータイにしよう」
軽い気持ちで、1日を過ごしたのですが、
「先生、どのネクタイですか?」
「どれですか?」
と、声をかけられ、その都度、言い訳がましく、あれこれ言って、謝るのでした。
叱られることも、謝ることも、成長には必要です。
叱られることで、学ぶことはたくさんあるし、素直に謝る心の柔らかさは、とても大切です。
が、やっぱり、叱られるのも、謝るのも、イヤ!
それも、大事なホンネでいいと思うのです。
その上で、道徳的なお説教として、叱られることや、謝ることの価値を訴えたいのではなく、叱られるほど、見られている、見られるほどのことをした自分はスゴいかもしれない…
謝らなくてはならないほどのことをした自分はスゴいのかもしれない…
と、見方をひっくり返してみることも、事態を変えるキッカケになる、とお伝えしたいのです。
ネクタイがどうのこうのなど、大したことではありません。
日頃、お子さんが何をした、かにをした、言った、言わないと、先生から電話がかかってくるたびに、イヤな気分になるというお母さんにとって、叱られることや謝ることは、そんなに軽いもんじゃない!と、私が叱られるかもしれません。
本当にそうだと思います。
が、だとしたら、なおのこと、見方をひっくり返してみることが必要です。
同じことをしていても、何も変わりません。
怒られる状況、謝らなくてはならない状況は、何かしらのいい兆しや、思いつきもしなかった我が子の良さの裏返しである可能性はありませんか?
私がネクタイをする約束を破ったことが、もしかしたら、お子さんの素晴らしい魅力を見つけるキッカケになるのかもしれません!
そう考えると、今朝、寝坊したことから始まったこの顛末も、最高のものに変わりました。