私は私として存在していい。
当たり前のことだけど、心の底から、そう思うことは、けっこう難しい。
自分では気がつかないうちに、私はダメなんじゃないか、ここにいてはいけないんじゃないか、と思っているのでは?
私は二時間ドラマが大好きで、キーワード予約でサスペンスを録り貯めていて、昨日は、片平なぎささん主演の心理捜査官的なドラマを見ていました。
そこで出てきた男の子が、近所では話題の嘘つきという話で、おまわりさんに叱られているシーンがありました。
心理捜査官の片平なぎささんは、その子のしぐさや目線で、今回はホントのことを言っていると気づき、家まで送ります。
家の前まで来た時、その子が、
「ボク、一人で帰る」
と言い出すのです。
お母さんは自分の存在を内緒にしていて、バレたら困る、お母さんに叩かれる、と言うのでした。
そのシーンで、私は、はたと自分のことを思い出しました。
私の母親は働いていたこともあり、私の存在をあまり大っぴらにしたくないのかな、と私が気遣っていたことを思い出したのでした。
私は別に叩かれることもありませんでしたし、親子の会話や一緒の時間もありました。
母は、家の中のことを外で、ほとんど語らないタイプで、母に厳しかった祖母も、それは本当にすごいと言っていたぐらいでしたから、私の存在を迷惑に思っていた訳ではないと思うのです。
でも、私は存在していいのか、いつも気遣ったり、考えたりしていた、ということに、そのシーンを見て気がついたのです。
私は私でいいんだ。
それは、私が最も大事にしていることです。
私のサイトでも、そのメッセージを発信していますし、私の教師としての核はそこにあります。
いや、教師という機能だけでなく、私という人間の核心にあるテーマがそれなのです。
なぜ、私がそれをテーマにしているのか。
小学校教師という立場でありながら、批判のリスクも背負って、こういう活動をしているのか。
全てが腑に落ちた感覚でした。
アナ雪のヒットで、ありのままで〜と、かえって言いづらくなってしまいましたが、ありのままの私が存在していいんだ、そこにこそ、価値があるんだということは、お題目としては、当たり前のことです。
でも、それを心の底から、疑いなど一切なく、それを前提に生きていくことは、とても難しいことです。
私の事情、昨日見たドラマの子どもの事情に関わらず、それぞれの子どもにそれぞれの事情があり、大なり小なり、こんな私ではダメなんじゃないか、私はここにいてはいけないんじゃないか、などと思っていることもあるのではないかと思います。
これは、母親の養育態度や心の幅の問題ではないのです。
「私」の問題なのです。
「そうか。私はそんなことを考えていたのか」
と気づき、
「だったら、全部、ひっくり返したっていいんじゃないか」
と考えてみるだけでいいのです。
そう考えると、振り返ってみて、私はどうせダメなんだ、うまくいかないんだ、ここにいちゃダメなんだ、ということになるように、うまくいくはずのことを、あえてうまくいかなくしてきたことも、数々、思い当たりました。
この気づきが、私の人生を昨日の夜からガラリと変え…ませんでした。
当たり前のことです。
突然、宝くじに当たることもないし、臨時ボーナスも出ないし、出世もしていないし、次の出版が決まってもいません。ラジオパーソナリティーのオファーもありません。
むしろ、朝寝坊して、遅刻寸前で学校に行ってしまいましたし、恥ずかしくなるようなミスもありました。とても言えない煩悩もあります。
でも、私の心の中は、ガラリと変わりました。
成功してもいい。
うまくいってもいい。
お金をたくさん稼いでもいい。
お金をたくさん使ってもいい。
人から評価されてもいい。
そして、
失敗することだってある。
うまくいかない(と自分で感じる)こともある。
お金を思うように稼いでいないこともある。
お金を思う存分、使っていないこともある。
人から批判されることもある。
当たり前のことですよね。
でも、私には当たり前のことではなかったのです。
思いもよらない時に、目からウロコの経験をしました。