本当に、あなたは責められているのか?
想像と決めつけで、責められたり、否定されたりしている自分を求めてはいないか。
もしそうなら、逆の経験が必要。
求められ、認められ、評価される瞬間を作る。
もう、でっち上げてもいい。
先日、子ども同士のケンカがありました。
ある男の子同士が、それぞれに自分に都合のいいルールを主張して、結局、言い合いになってしまったのです。
私が入る前に、ちょっとお姉さんのある女の子が、入っていき、それぞれのワガママさを言いました。
私は、彼女の成長が本当にうれしく、素晴らしい時間を味わっていました。
とはいえ、それで終わりませんでした。
もちろん、男の子たちにしたら、そういう正論で解決できるなら、初めからケンカになんて、ならないのです。
人の言い分を聞く心の幅がないので、ケンカになったわけですから、彼女の言葉にも、不満を述べました。
すると、結局、彼女は、
「いつも、私は人に責められる!」
と、泣いてしまう結果になりました。
彼女の言葉は素晴らしいもので、筋が通っていました。
けれど、いくら正しくても、正しいことが、人の心に入り込むとは限りません。むしろ、正しさは人を傷つける、あるいはイラっとさせるのです。
それにしても、彼女は責められてはいませんでした。
男の子たちは、自分それぞれの主張をしただけのことでした。
せっかく間に入ったのに、アッサリ解決はできなかった残念さはあるにせよ、彼女は責められていないし、男の子たちが自分の言い分を言ったぐらいのことは、何でもないことです。
彼女の中には、どうしても自分は責められるんだ、という心の準備ができていたようです。
子どもは大なり小なり、叱られるし、否定もされるのですが、それが前提というのは、ちょっと悲しいですね。
こういうことは、クラスでも、よくあります。
実は、そんなに責められてもいないし、見下されてもいないのに、責められるのがいつも不安、見下されるのがいつも不安なので、逆に責められそうな瞬間、見下されそうなネタを探しているようなものなのです。
ということは、本当は逆のことを求めているのではないでしょうか。
本当は、みんなから認められたい、賞賛されたい、見上げてほしい。
それができないなら、無視されるよりも、責められる方がマシ…
この心理は、教育心理学でも、基礎中の基礎的な考え方です。
ならば、もうでっち上げてもいいから、認められ、賞賛され、見上げられる場を作りましょう。
学校でそれが難しいなら、まずはご家庭でやってみましょう。
ご家庭でも責められ、見下されているなら、学校で認められ、見上げてられるのは、なかなか難しいのではありませんか?
これは甘やかしではありません。
心のメカニズムを踏まえた、現実的なテクニック、ととらえてもいいのです。