身近なもの、当たり前のことに感謝する大切さ。
まさに、当たり前のことだけど、つい忘れてしまう。
今朝、少し早く学校についてしまったので、何を思ったか、野川公園というところを散歩してみました。
ご存知の方は、想像できたと思いますが、もともと、ICUのゴルフ場だったところで、芝生の広場がある一方で、林と言えるほど大きくはないにせよ、木々も多い公園です。
わたしの勤める学校では、週に1回、野川の時間というのがあり、遊びに出かけています。
その授業(?)のことは、また機会を改めるとして、つまり、私にとって野川公園は、いつもの、当たり前の素敵な公園です。
が、朝の6時頃にウロウロしたことは、全くなく、とても新鮮でした。
昨日までの雨が土にしみこんでいたことで、少し靄がかかったようなところに、朝日が木々をぬって差し込んでいる景色。
わたしの文章力では、わたしの感じた素晴らしさを表現できず、もどかしいのですが、すばらしいものでした。
そして、それを職場について、同僚に話した時です。
「あ、これって本当に幸せなことだな」
と感じました。
出勤途中、ちょっと早く着いたから、遠回りしてみた。
そこで見た景色が素晴らしかった。
それを同僚に話せた。
何のことはないことです。
でも、それを何の気負いも、緊張感もなく、自然と言える関係がある、ということは、当たり前のようで、当たり前でないな、と感じたのでした。
子ども達が、学校や幼稚園、習い事などで経験したこと、楽しいこと、うれしいこと、もちろん、悲しいこと、嫌なこと…
お母さんと話せる。
お父さんに言える。
兄弟姉妹とバカにしあえる。
それって、当たり前と簡単に言って軽視してはならない、とても価値のあることです。
「もう、ウチの子のワンパターン話には飽き飽きです~」
だとしても、ワンパターン話をして、ワンパターンの反応があるのだとしても、水戸黄門をみて、最後の印籠で安心できるように、お母さんのワンパターンの反応がお子さんを安心させてくれるのです。
今日は、あらためて、当たり前の会話の価値を感じました。