「なまはげ」から考える、「恐怖」が子どもに与える影響
なまはげ…
あの恐ろしい鬼の面とふりかざした包丁を思い浮かべることのできる方も多いでしょう。
あの経験が、子どもの心に、大きな傷をつけるか、つけないかは、わからないけれど、怖さだけでしつけよう、とすることの方が問題なのではないかと思います。
先日、ニュースで、なまはげにすごまれて(?)、泣き叫ぶ子どもの姿を見ました。
ご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか。
あの泣き叫ぶ子どもの姿を見るにつけ、私は、
「これって、子どもの心に傷を残さないの?」
と、思います。
まあ、運動を起こして、やめるべきだ!
とまで、問題視しているわけではありません。
伝統文化の一つでもあるでしょうから、なくなった、となれば、部外者とはいえ、少しさみしい気もします。
ふと、関心を持って調べてみたところ、同じような風習は、秋田や山形など、日本海側の地域でおこなわれているほか、外国にも同様のものがあるとわかりました。
いずれにせよ、幼児期に恐怖体験を植え付け、何らかの「悪さ」をした時に、
「なまはげが来るぞ」
と脅して、自制させる機能を持っているようです。
私自身は、「脅し」によるしつけの効果は限定的だと思っていますが、まったくないとも思いませんし、多少はあった方がいいと思います。
ただ、何事も、ワンパターンでは飽きられてしまいます。
何かやるたびに、
「なまはげが来るぞ」
他の地域なら、
「お父さんに叱られるよ」
「そんなことしたら、叩くよ」
というような、「脅し」をちらつかせても、
「はーい。別にいいよ」
という反応になってしまう恐れがあります。
いや、そういう反応が表に出れば、いい方です。
「わかったよ」
と口ではいいながら、内心、
(はいはい、いつもの脅しでしょ)
と思われてしまうと、もはや、悪影響しかありません。
ですから、なまはげであれ、お父さんのカミナリであれ、お母さんの涙であれ、その怖さだけで、子どもをコントロールしようとするなら、そこに問題があると思います。
そうなれば、なまはげの怖さの体験は、より強化される恐れもあるのではないでしょうか。
私の勤める学校でも、かつては、今ではありえないような、猛烈先生がいたそうです。
が、同窓会に集まる皆さんは、それを大笑いして、語らっているのです。
つまり、その教室・空間は、子どもにとって、安心な場だからこそ、猛烈ぶりを自慢しあえるのです。どれだけ激しかったか、自慢し合えるというのは、ある意味で、素晴らしいような気がします。
もちろん、これは体罰礼賛などではありません。
今日の記事の趣旨通り、「脅し」の教育的効果は、限りなく限定的だ、と私は考えています。
なまはげも、お父さんのカミナリも、お母さんの涙も、ある種の伝統行事として、ファミリーの中で、ほほえましいもの、という共通理解があり、大人の心理的に安定した環境があるならば、大人になった時に、懐かしい思い出になるような気がします。