親の見栄でも都合でも、大歓迎。
ただし、それが真剣なものならば…
見栄を張ってはいけません。
ありのままの自分を大切に。
親のペースで物事を進めてはいけません。
子どもの実態を受け止めて。
確かに大事だと、思います。
もちろんです。
が、ありのままの自分って、何でしょうか?
子どものちょうどいいペースって、どれぐらいでしょうか?
まして、成長途上の子どもにとって、何がありのままでよくて、何が必要なしつけや指導なのでしょうか?
私の話で恐縮ですが、私は洋服選びが大好きで、ありたいイメージを決めてから、どんな服が必要か、というような感覚で、お店にいそいそ出かけています。
中でも、新宿・伊勢丹のメンズ館は、最高の教科書です。
しかも見るだけなら、無料です。
思えば、私は、小学生の頃から伊勢丹にしょっちゅう行っていました。
アレルギー性鼻炎のあった私は、耳鼻科にかかるとなると、母の仕事の都合で、いちいち、四ツ谷に呼び出されていました。
そして、帰りは丸ノ内線で新宿三丁目まで行って、伊勢丹で何やら買い物に付き合わされるのが常でした。
あの頃は、それが嫌で嫌で仕方なかった…
友達と校庭で遊んでいる方が、よほど楽しかったし、着せ替え人形なのか、罪滅ぼしなのか、たまに買ってもらった洋服も、適当なTシャツなんかの方が魅力的に思えていました。
が、大学生になり、女の子の買い物に付き合っても、ちっとも嫌でない自分に気づいたのです!
これは本当に驚きでした。
買い物に付き合う免疫…
長いトイレを待っていられる免疫…
思いもよらない、「力」が育っていました。
母の都合で、いちいち四ツ谷に呼び出すことは、はっきり言って、親の都合ですし、
母の好みで、洋服を着せること、しかも伊勢丹で、というのは、おそらく見栄もあったと思います。
が、それが10年、20年たって、私の重要なアイデンティティの1つになっていた…
何がいいのか、悪いのか、判断するのは難しいようです。
ただ、1つ言えることは、私を四ツ谷に呼び出すこと、帰りに伊勢丹に寄ることに、母は、何らの罪悪感も、良心の呵責も感じていなかったようだ(ちょっと言い過ぎかもしれませんが…)、というのが、私に良かったのではないか、ということです。
感情は伝染します。
「あ〜申し訳ないな〜」
「う〜ん…こんなことさせたら、かわいそうだな…」
などと思っていたら、それは必ず、子どもに伝わっているものです。自覚できているかどうかは別として…
ですから、子どもに接する時は、親の都合、万歳ですし、親の見栄、万歳だと私は思うのです。
ポイントは、真剣かどうか、そこにあるのではないでしょうか。