北風と太陽の物語で、一番、重要なのは、何だと思いますか?
私は、「よし、この旅人の外套を脱がそう!」と決めたことだと思います。
北風流ががいいか、太陽流がいいかは、どうでもいい。
つまり、方法論よりも、何をしようか、させようかと、決断することこそ、重要なのではないでしょうか。
かつての私は、「北風」そのもので、怒鳴ることもしばしば、子ども達にたくさんの要求をしていました。
しかし、今の私は、どちらかと言うと、「太陽」のやり方を好むタイプだと思われているようです。
(思われていたいです…かな?)
変わった結果、成果は…
あまり、変わりませんでした。
むしろ、何をさせるか、要求するかを迷っているかいないか、ハラを決めているか、いないか、ということの方が、決定的な要因だと思います。
私自身、先生は北風のようでなければならない、と妙に思い込んでいたこともあり、かつては、「北風」で「あろう」としていました。
しかし、どうもしっくりいかない…
そこで、ある時から、言葉遣いも丁寧にし、男女問わず、さんをつけて呼ぶのを普通にし、できる限り、決めつけずに、話を聞き出すよう努めるようになりました。
そのおかげで、
「先生の優しさのおかげで、~」
と、言っていただけることもあり、嬉しいものです。
しかし、さすがにそれで有頂天になるほどではありません。
当然、反対の見方・声もあるわけです。
「先生が甘いから、こうなるのよ~」
本当にそうだな、と思うこともあるし、
「いや、そんなことはありません!」
と言いたくなるようなこともあります。
子どもも、保護者も、同僚も、それぞれの立場で、それぞれの反応を示します。
それらの1つ1つに、意味も、価値もありますが、それらの反応を気にして動くと、ロクなことはありませんでした。少なくとも、私の場合は…
「私」という人間の全てをかけて、「これは要求する」と、覚悟を決められたことは、子どもにその気配が伝わるようです。
「太陽」方式に変えて、劇的に変わった!なんてことはなく、
一方で、「北風」方式が、すごくよかった、なんてこともなかった…
むしろ、方法論なんかより、
「よし、今日は4ページ進むぞ!」
とか、
「今日は、この子と向き合おう!」
などと、こちらの覚悟を決めるかどうかの方が、よほど大事なんじゃないか。
怒鳴ろうと、ほめようと、見張っていようと、見守っていようと、それなりに、子ども達は動いてくれました。
まずは子どもに何を要求するか、固まっていますか?
それが決まってから、方法を探し求めてもよさそうです。